第25話 言わなくても分かる、とは限らない
翌日の昼休み、私はルシアンを探して図書室へ向かった。
窓際の席に、紺色の髪が見える。彼は魔法理論の本を開き、余白に細かく計算を書き込んでいた。
図書室は昼休みでも静かだった。大きな窓から入る光が、書架の間に細い帯を作っている。古い紙と乾いた革表紙の匂いは、実家の書庫によく似ていた。
私は足音を忍ばせて歩きながら、なぜか胸が落ち着かないことに気づく。
昨日、ルシアンは私が言いかけたことを最後まで聞かず、先に答えを出した。正しい答えだったと思う。でも私は、正しさより先に『怖かった』と言いたかったのかもしれない。
「ここ、座ってもいい?」
顔を上げた彼はすぐ本を閉じた。
「もちろん。何かあった?」
「何もない、って言ったら嘘になるかな」
自分の声が思ったより小さくて驚いた。剣の試合なら、間合いを見て踏み込めばいい。言葉の間合いは、それよりずっと難しい。
ルシアンは急かさなかった。窓の外で鳥が一度鳴き、ページをめくる音がどこかから聞こえた。沈黙を待ってもらえることが、こんなにありがたいとは思わなかった。
「ルシアン!」
声を潜めたつもりが、司書の先生に静かにするよう目で注意された。
私は慌てて椅子を引く。
「昨日の刻印のこと、もう調べてるの?」
「少しだけ。似た意匠はいくつかあるけど、まだ何とも言えない」
「そうなんだ。ねえ、今日の魔法評価、見に来てくれる?」
彼は本を閉じた。
「行くつもりだったよ。でも、君が嫌なら離れている」
「どうして嫌なの?」
「僕がいると、君は無理をして普通に見せようとするから」
私は返事に詰まった。そんなつもりはない。少なくとも、ルシアンの前で格好をつけようとは思っていない。
「ルシアンは、私が失敗すると思ってる?」
「違うよ」
「じゃあ、何?」
彼はしばらく黙った。青灰色の瞳が、開いた本ではなく私を見ている。
「君が一人で全部抱えようとするのが心配なんだ」
胸の奥がちくりとした。
「私、そんなに頼りない?」
「頼りないんじゃない。頼ってほしい」
私は何も言えなくなった。
家では、困ったら兄姉や両親に相談するのが当たり前だった。なのに学院に来てからは、力を隠すことばかり考えて、ルシアンにさえ詳しく話さないことが増えていた。
「……ごめん。心配させてたんだね」
「謝らなくていい。ただ、僕が何を考えているかも、聞いてほしかった」
私は彼の指先を見る。紙の端を押さえる手が、いつもより少し強く握られていた。
「じゃあ、聞くね。今日、見に来てほしい。私が変なことをしたら、あとで教えて」
彼はようやく笑った。
「分かった。遠慮なく言うよ」
「ほどほどにね」
「それは君次第かな」
図書室を出ると、廊下の向こうでアレクシスが手を振っていた。
「二人とも、昼食はどうした!」
「今から行くよ」
「先に食べておかないと魔力が持たないぞ。俺は三皿食べた!」
「それは食べすぎ!」
私は笑いながら歩き出した。
言わなくても分かってくれると思っていた。けれど、言葉にしないと伝わらない気持ちもある。たったそれだけのことが、今日は新しい剣の型を覚えるより難しかった。
食堂へ向かう途中、ルシアンがさりげなく私の歩く側へ移動した。窓から差す日差しが強い方を、自分が引き受けるように。
話し終えると、ルシアンは少し困ったように笑った。
「君を守りたいと思うと、つい先回りするんだ」
「守ってくれるのは嬉しい。でも、私にも考える時間がほしい」
「分かった。次からは聞く」
「本当に?」
「本当に。……ただし、崖から飛び降りようとしていたら止める」
「飛び降りないよ!」
「十二歳のとき、川沿いの岩から飛び移ったのは誰?」
「あれは距離を測ってたの!」
「測り方が大胆すぎる」
小さく笑い合うと、胸の奥に残っていた棘がほどけた。私は自分の言葉で伝えられたことが嬉しかったし、彼がきちんと聞いてくれたことも嬉しかった。
ルシアンが本を開き直す。余白には細かな計算がびっしり並んでいた。
「難しそう」
「少しね。でも、分からないことがあるのは嫌いじゃない」
「私も。剣の型も、まだ知らないものがあるから」
「じゃあ、似た者同士だ」
彼の言い方が妙に優しくて、私は返事をする前に視線を落とした。
その理由までは分からなかったけれど、私は少しだけ嬉しかった。




