第21話 試験前夜の木剣
実技評価の前日、王立セレスティア学院の訓練場には、乾いた木剣の音が響いていた。
私はその音を聞くたび、つい足を速めてしまう。北方の実家なら、祖父が朝から庭で剣を振っていて、私が近づくと「一本どうだ」と笑ったものだ。けれどここは学院。
しかも明日は正式な評価である。
夕暮れの訓練場は、昼間より広く見えた。西の空が橙色から薄紫に変わるにつれ、木剣を打つ音も一つずつ減っていく。
土を踏む靴底の感触は実家と同じなのに、周りを囲む石壁も、整然と並んだ標的も、まだ少しよそよそしい。私は袖口を引き、指先の小さな傷を隠した。
昨日、剣の柄を磨きすぎてできた傷だ。母なら笑いながら薬を塗ってくれただろう。
祖父の言葉を思い出す。「勝ちたければ相手を見ろ。負けたくなければ自分を見ろ」。子どもの頃は意味が分からず、兄のヴィクトルに何度も尋ねた。
兄はいつも「まず足元だ」としか答えなかった。明日の評価で何を見せるべきなのか。普通の令嬢らしい剣の腕か、それとも、目の前の人を傷つけないための本当の技術か。
考えるほど、答えは遠くなる。
「エレナ、眉間にしわ」
声をかけたのは、見学に来たノエルだった。手には小さな紙袋がある。
「疲れたとき用の香草飴です。薬ではないけれど、気分が落ち着くので」
「ありがとう。私、そんなに怖い顔だった?」
「少しだけ。剣を持っているときより、持っていないときの方が」
思わず笑ってしまった。ノエルは照れたように目を伏せる。誰かに気づいてもらえるだけで、胸のつかえが少し軽くなるのが不思議だった。
「目立たず、丁寧に」
自分に言い聞かせたところで、背後から大きな声が飛んできた。
「エレナ! いいところにいた!」
アレクシスが木剣を二本抱えて走ってくる。金色の髪が夕日に照らされ、やけに楽しそうだ。
「今から一勝負――」
「しない!」
「まだ最後まで言ってないぞ」
「最後まで聞いたら、きっと断りにくくなるもの」
彼は笑い、一本を肩に担いだ。彼の固有魔法《金剛》を使った盾は硬い。しかし、硬いからといって衝撃まで消えるわけではない。
以前の手合わせでそれを身をもって知ったはずなのに、本人はまだ新しい工夫を試したくて仕方がないらしい。
「明日の評価、ガルド先生は組み合わせを直前まで伏せるそうだ。俺たちが同じ組になるかもしれない」
「だからって今、余計に疲れる必要はないでしょう?」
答えたのはルシアンだった。いつの間にか訓練場の入口に立ち、手にした紙束を軽く振る。
「実技の注意事項を写してきた。評価は勝敗だけじゃない。姿勢、判断、周囲への配慮も見るって」
「周囲への配慮なら俺は得意だ」
「さっき廊下で三人にぶつかりかけていた人の言葉とは思えないね」
「避けたから問題ない!」
私が吹き出すと、アレクシスは少し不満そうに頬を膨らませた。
ルシアンは私に一枚渡してくれた。細い字で項目が整理されている。魔力使用時の安全確認、降参の合図、制限時間。最後には赤い線で「無理な隠蔽による事故に注意」と書かれていた。
「これ、私のために書いた?」
「半分はね」
「残りの半分は?」
「アレクシスのため」
「おい!」
三人で笑ったあと、私は木剣を一本手に取った。握りは使い込まれて少し滑らかになっている。実家の剣に比べれば軽い。でも軽い剣にも、その剣なりの動かし方がある。
「一本だけ、素振りしてもいい?」
「一本なら」とルシアン。
「百本の間違いだろ」とアレクシス。
私は一本振った。足の裏から腰、肩、手首へ力が通る。木剣の先が夕日の線を切り、風が静かに鳴った。
気持ちよかった。ついもう一本振りたくなる。
「……エレナ」
ルシアンの声に、私は慌てて剣を下ろした。
「一回だけだったよ?」
「そうだね。でも、見ていた一年生が全員止まってる」
振り返ると、訓練場の端で練習していた生徒たちがこちらを見ていた。私は耳まで熱くなった。
「今のは普通の素振りだよね?」
アレクシスが腹を抱えて笑い始める。
「お前の普通は、一度考え直した方がいい!」
私は木剣を返し、明日は絶対に落ち着いてやろうと誓った。
帰り道、ルシアンが歩調を合わせる。
「怖い?」
「試験が?」
「自分が、また誰かの目に留まること」
私は少し考えた。強さを隠すのは簡単なようで難しい。けれど本当に怖いのは、誰かに期待されることより、期待に応えようとして自分の大切なものを見失うことかもしれない。
「……ちょっとだけ。でも、みんなと一緒なら大丈夫だと思う」
「うん。僕もいる」
その一言が、夕方の風よりずっと温かかった。
寮へ戻る前、私は訓練場の片隅に落ちていた木のささくれを拾った。誰かが握りを強く締めすぎたのだろう。明日、ここで剣を振る生徒の中には、怖くて手が震える人もいるはずだ。
私は剣が好きだから、剣を怖がる人の気持ちを忘れがちになる。
「ルシアン。私が明日、相手に怖い思いをさせそうになったら止めてね」
「君なら自分で止まれると思う。でも、必要なら言うよ」
「遠慮しないで?」
「君に遠慮していたら、子どもの頃から何度川に落ちていたと思う?」
昔、木剣を取りに浅瀬へ入った私を追いかけて、彼が制服のまま水に入ったことがある。私は濡れた靴を抱えて笑い、ルシアンは怒ったような顔で手を差し出した。
その手の温かさだけは今でも覚えている。
「じゃあ、頼りにしてる」
「うん」
短い返事なのに、彼は大事な約束を交わしたような顔をした。
私にはその理由が分からなかった。ただ、明日が少し楽しみになった。
寮の門が見える頃、私はようやく気づいた。
ルシアンは私の歩幅に合わせて、ずっとゆっくり歩いてくれていたのだ。




