第10話 十二歳の約束
ルシアンから届いた手紙を読み返しているうちに、私は四年前の冬を思い出した。
机の引き出しには、王都へ移った彼から届いた手紙を束ねてしまってある。紙の端が少し擦り切れたものもあるけれど、どれも捨てられなかった。文字を追うと、そのときの季節まで思い出せる。雪が深かった冬。庭の花が咲いた春。ルシアンの返事を待ちながら、何度も窓を見た日。
どうしてこんなに大事なのだろう。幼馴染だから、というだけでは説明できない気もする。けれど私は、その答えを考えるより先に、古い一通を開いていた。
十二歳の私は、今より少し背が低く、今と同じくらい剣が好きだった。ルシアンは王都へ移る前で、フォルスター領からリーヴェルへ遊びに来ていた。
その日、私たちは白銀の森の外れで薬草を探していた。
森の枝には霜が降り、踏みしめる雪がきゅっきゅっと鳴った。息を吐くと白くなり、手袋の中の指先まで冷える。ルシアンは私より厚い外套を着ていたが、それでも鼻先が赤かった。
「寒くない?」と私が聞くと、彼は「平気だよ」と答えた。絶対に平気ではない顔だったので、私は持ってきた温かい飲み物を差し出した。彼は両手で受け取り、少しだけ笑った。
あのころから、彼は無理をしているときほど平然とする。私はまだ、その癖を全部見抜けるわけではなかった。
「これが霜花草?」
「そう。根元を残して摘むんだよ」
私が説明すると、ルシアンは真面目にうなずいた。彼は昔から何でもよく考える。私が足元の岩を飛び越えるときも、まず崩れないか確かめるような子だった。
帰り道、村の方角から悲鳴が聞こえた。
「魔狼だ!」
森の端を、灰色の影がいくつも走っていた。村人たちが荷車を置いて逃げている。私は考えるより先に駆け出した。
「エレナ、待って!」
ルシアンが追ってくる。最初の魔狼が村人に飛びかかった瞬間、私は木剣で横腹を打った。魔狼は地面を転がり、起き上がる。
数が多い。
魔狼は普通の狼より体が大きく、濁った赤い目をしていた。雪を蹴る爪の音が近づく。村人の一人が転び、荷車の陰から子どもの泣き声が聞こえた。
怖くないわけではなかった。私の手にあるのは木剣で、祖父も父もここにはいない。けれど、目の前で誰かが傷つくのを黙って見ていることはできなかった。
「まず道を開けよう!」とルシアンが叫んだ。私はうなずき、狼の進路を読んだ。二人で何度も稽古した、声をかけ合うときの呼吸だった。
「ルシアン、皆を後ろへ!」
「わかった。君は一人で囲まれないで!」
彼が風を使って荷車を動かし、村人たちの逃げ道を作る。私は魔狼の進路を塞いだ。けれど、雪の下の地面はぬかるみ、足場が悪い。
一頭が私の背後へ回り込んだ。
次の瞬間、指先に青白い光が走った。
雷。
青白い線が視界を裂いた。耳の奥で小さく音が弾け、雪面に光が反射する。私は祖母の教えを必死に思い出した。水のある場所に落とさない。人の近くへ流さない。必要な分だけ、短く。
力を出すことより、止めることのほうが難しい。魔力が指先から抜けていく感覚に、私は唇を噛んだ。ここで制御を失えば、守りたかった人まで傷つけてしまう。
九歳のときから隠してきた力だった。祖母に教わったとおり、私は水たまりを避け、魔狼の足元だけを狙った。閃光が走り、獣が悲鳴を上げて倒れる。
けれど魔力を一気に使ったせいで、視界が揺れた。
「エレナ!」
ルシアンが私の腕を支えた。その向こうで、彼の手から白い霧が広がる。霧は一瞬で氷の壁になり、残りの魔狼の足を止めた。
「……氷?」
「今は後で!」
彼は氷の向こうへ炎を放ちかけ、すぐに手を止めた。近くに村人がいたからだ。代わりに風で雪を巻き上げ、魔狼を森へ追い返した。
やがて巡回の騎士たちが到着した。村人たちは無事だった。私たちは目立たない場所で息を整え、騎士たちが周辺を安全にしたことになった。
「さっきの魔法、見た?」
私は小声で尋ねた。
「見たよ」
「秘密にしてくれる?」
ルシアンは少し考えてから答えた。
「君が誰かを守るために使ったことも、誰にも言わない」
私は彼の手を握った。
「ありがとう。ルシアンの氷も、私だけの秘密にする」
「……もう一つ、あるんだけど」
「もう一つ?」
彼は困ったように笑った。
「爆炎。まだうまく扱えない。だから、さっきは使わなかった」
「すごい! 今度見せて!」
「まず安全な場所を探してからね」
それが、二人だけの約束になった。
帰り道、ルシアンは何度も私の歩調を確かめた。私は大丈夫だと言い張ったけれど、足元がふらつくたびに彼の手が伸びてきた。
「秘密にしてって言ったけど、危ないときは大人に相談しようね」と彼が言った。私は少し考え、うなずいた。秘密を守ることと、誰にも助けを求めないことは違う。祖母には帰ってから、使った魔力量も失敗しかけたことも全部話した。
その夜、祖母は私を叱る代わりに、もっと厳しい制御の稽古を始めた。ルシアンにも手紙を書き、氷と爆炎の扱いを独学で試さないよう伝えたという。あの日の約束は、ただ秘密を隠すためのものではなかった。
現在。
私は寮の机に手紙を置き、窓の外を見た。王都の夜空は北の空より少し明るい。
あの冬から、ルシアンはずっと秘密を守ってくれている。王都へ移ってからも手紙は途切れなかった。
翌朝、学院の中庭で彼を見つけた。
「ルシアン」
「おはよう。どうしたの?」
「昔のこと、思い出してた。魔狼のときの」
彼の表情が少しだけ真剣になる。
「後悔してる?」
「ううん。怖かったけど、皆が無事でよかった」
ルシアンはほっとしたように息を吐いた。
「僕も、同じだよ」
風が中庭の木々を揺らした。
「ねえ、これからも秘密を守ろうね」
「もちろん」
彼はそう言って、少しだけ目を伏せた。
私は知らなかった。あの日の約束とは別に、彼がずっと胸の奥にしまっている言葉があることを。
そして、それがいつか私たちの関係を変えるかもしれないことも。




