第9話 完璧な公爵令嬢の秘密
放課後、学院の図書室で一冊の本を探していた私は、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
図書室は天井まで続く書架に囲まれ、古い紙と磨かれた木の匂いがした。高窓から射す光の中で、細かな埃が金色に舞っている。私は書架の番号を何度も確かめていた。剣術史の本は、歴史の棚なのか軍事の棚なのか、どうにもわかりにくい。
図書室では声を潜めるのが決まりだ。私は足音を忍ばせて歩いた。森で魔物を探すときより緊張するのは、なぜだろう。
淡い金髪を美しく結い上げ、姿勢よく書架の前に立つ女性。王太子クラウス殿下の婚約者、ヴィクトリア・ローゼンベルクさまだ。
「ヴィクトリアさま?」
声をかけると、彼女は振り返り、優雅に微笑んだ。
「まあ、エレナ。入学してからどう?」
「毎日楽しいです。でも、少し目立ってしまったかもしれません」
「あなたが剣を好きなのは、昔から知っているもの」
ヴィクトリアさまには、姉クラリスを通じて何度かお会いしたことがある。姉の礼儀作法の相談に乗ってくださった、頼れる方だ。
「探し物?」
「王国の剣術史です。授業で名前が出た流派が気になって」
「それなら、こちらの棚よ」
彼女が示した棚には、古い装丁の本が並んでいた。私は礼を言い、一冊を抜き出す。
そのとき、彼女の手元から薄い冊子が滑り落ちた。
拾い上げた表紙には、可愛らしい子猫の刺繍図案が描かれている。
「……!」
ヴィクトリアさまの頬が、ほんのり赤くなった。
冊子の端には、細い糸で結ばれた栞が挟まっていた。子猫のほかにも、小鳥や花の図案が並んでいる。私は思わず見入った。リリアなら大喜びするだろう。
「こういう小物、お好きなんですか?」と尋ねてから、私は失礼だったかもしれないと思った。けれどヴィクトリアさまは、しばらく迷ったあとで小さくうなずいた。
「可愛いものを見ると、つい集めたくなってしまうの。公爵家の娘らしくないと言われそうでしょう?」
私は首を横に振った。好きなものを大切にすることに、家柄は関係ないはずだ。
「それは、その……知人に頼まれたもので」
「とても可愛いですね!」
私が素直に言うと、彼女は一瞬驚き、それから小さく笑った。
「あなたは変わらないわね」
図書室の奥の席で、私たちはしばらく話した。彼女は刺繍や可愛い小物が好きで、昔から騎士の訓練にも憧れていたという。
「でも、公爵家の娘には、似合う振る舞いというものがあるでしょう?」
「好きなものは好きでいいと思います」
「……簡単に言うのね」
「私も、普通の令嬢らしくしようとしているんですけど、剣を見るとつい」
ヴィクトリアさまは声を立てずに笑った。
「それなら、お互いに秘密を一つずつ持っていることになるわね」
その後、図書室の入口に王太子クラウス殿下が現れた。
クラウス殿下の姿を見つけた途端、近くの生徒が姿勢を正した。私は慌てて本を閉じ、礼の角度を思い出す。ヴィクトリアさまは、そんな私を見て目元を和らげた。
殿下は穏やかな声で話し、相手の返事を最後まで待ってくださる。王族というだけで身構えていた私は、少し意外に思った。ヴィクトル兄さまが親しくしている理由が、何となくわかった気がする。落ち着いた物腰で、ヴィクトリアさまに声をかける。
「探したよ。会議が少し早く終わった」
「クラウスさま。こちら、エレナ・リーヴェルトさんです」
私は慌てて立ち上がり、礼をした。
「ヴィクトルの妹君だね。兄上には以前、助けられたことがある」
「兄がお世話になっております」
「こちらこそ」
クラウス殿下の笑顔は穏やかだったが、机に置かれた書類には北方の地名が見えた。
「ノルディア方面の報告ですか?」
つい尋ねてしまうと、殿下は少しだけ目を見開いた。
「地名を知っているのか」
「北方の出身ですから。最近、魔物が増えていると聞きました」
「まだ詳しい調査中だ。心配をかける話ではないよ」
その言い方は、心配する必要がないという意味ではなさそうだった。
ノルディアは北の砦の町だ。リーヴェルからは離れているが、魔物の動きが変われば商人の往来にも影響する。父が領地の報告を読むとき、近ごろ眉間に皺を寄せていたことを思い出した。
私はもう一度尋ねたかった。けれど、ここは図書室で、私はまだ入学したばかりの学生だ。殿下の言葉以上を無理に聞くことはできない。
代わりに、故郷へ手紙を書こうと決めた。リリアのことも、白銀の森のことも、何でもない日常を聞かせてもらいたかった。
別れ際、ヴィクトリアさまは私の手を取った。
「またお茶をしましょう。剣のお話も、ぜひ聞かせて」
「はい!」
私は嬉しくなってうなずいた。
図書室を出るとき、窓の外には夕暮れの学院が広がっていた。今日も穏やかな一日だった。
けれど、北の山々の向こうで何かが変わり始めていることを、私はまだ知らなかった。




