第8話 婚約者の笑顔の裏側
昼休みの中庭で、セレスティーヌが花壇の前に立っていた。
陽だまりには甘い花の香りが漂い、石造りの噴水が細かな水音を立てていた。講義の合間の生徒たちは、芝生で本を開いたり、友人と笑い合ったりしている。こんなに穏やかな場所なのに、セレスティーヌの背中だけが、どこか寒そうに見えた。
私は声をかける前に、少し迷った。昨日の昼食では笑っていた。けれど、笑顔があるからといって、心配が消えたわけではない。母ならどうするだろう。姉なら。考えているうちに、彼女の手が袖口をぎゅっと握った。
白い小花を見つめる横顔は穏やかだったが、指先は制服の袖を強く握っている。
「セレスティーヌ?」
私が声をかけると、彼女は慌てて微笑んだ。
「エレナさん。お昼はもう?」
「これから。皆で食堂に行こうと思って探していたんです」
「……ありがとうございます」
そこへ、石畳を踏む硬い靴音が響いた。
「また友人ごっこか、セレスティーヌ」
第二王子フェリクス殿下だった。後ろには数人の生徒が付き従っている。
「殿下。ごきげんよう」
「僕の婚約者なら、もっと相応しい相手と付き合うべきだ。辺境の子爵令嬢に何を学ぶ?」
私は返事を飲み込んだ。
胸の奥で、かっと熱いものが広がった。辺境の子爵令嬢だから、何だというのだろう。身分が違えば、誰かを傷つけてよいことになるのか。
私は一歩踏み出しかけたが、セレスティーヌの表情が目に入った。彼女は私を庇うように体をわずかに前へ寄せている。自分が責められているのに、私のことを気にしているのだ。
その気持ちを無視して怒鳴るのは、きっと助けることにならない。私は奥歯を噛みしめ、呼吸を整えた。怒りに任せて言い返せば、矛先はセレスティーヌに向くだろう。
「エレナさんは、とても親切な方です」
セレスティーヌが小さく、けれどはっきり言った。
フェリクス殿下の眉がつり上がる。
「僕に口答えするのか」
「殿下」
声をかけたのはルシアンだった。いつからそこにいたのか、アレクシスも隣に立っている。
「次の講義まで時間がありません。中庭で人が集まると、通行の妨げになります」
王子を非難するでもなく、周囲の状況だけを告げる言葉だった。
「フォルスターか。余計な口を挟むな」
「失礼しました。学院の規則について申し上げただけです」
アレクシスが一歩進み、明るい声を出す。
「殿下、講義棟へ向かわれるならご一緒します。俺もちょうどそちらへ」
フェリクス殿下は不満げに鼻を鳴らし、取り巻きとともに歩き去った。
私は握りしめていた手を開いた。
フェリクス殿下が去ったあとも、空気はしばらく張り詰めていた。遠くでは何事もなかったように噴水が流れている。アレクシスは普段の明るい笑みを少し引っ込め、ルシアンは人の往来を確かめていた。
「王子だからって、何でも許されるわけじゃない」と私が言うと、ルシアンはうなずいた。「そのとおり。でも、彼女の望む形で支えよう」
私はセレスティーヌを見る。彼女は目を伏せたまま、小さく「ありがとう」と言った。その声は、泣き声にはならなかった。爪が掌に食い込んでいる。
「ありがとう、二人とも」
「礼はいいよ」
ルシアンが私を見た。
「君も、よく我慢したね」
「我慢するの、苦手なんだけど」
セレスティーヌがかすかに笑った。
「皆さんを巻き込んでしまって……」
「巻き込まれたんじゃないよ。友達だから、心配なんです」
私がそう言うと、彼女の瞳が揺れた。
食堂ではミレイユとフィオナが先に席を確保し、ノエルが温かいお茶を用意してくれていた。誰も詳しい事情を無理に聞かなかった。代わりに、ミレイユが新作のリボンの話をし、フィオナが王都の菓子店の値上げを嘆き、ノエルが薬草園の珍しい芽を見つけた話をした。
セレスティーヌは少しずつ笑顔を取り戻した。
食後、彼女が私にだけ聞こえる声で言った。
「エレナさん。私、もう少し強くなりたいです」
私はすぐに剣の話をしそうになって、口を閉じた。
祖父なら「強くなりたければ毎朝素振りだ」と言うだろう。リリアなら「嫌な相手には負けないことです」と拳を握るかもしれない。でも、セレスティーヌが求めているのは、そういう強さではない。
私は自分の言葉を探した。剣の稽古なら失敗しても次の一本がある。人前で気持ちを伝えることにも、練習はできるだろうか。少なくとも、私たちの前なら間違えても笑われない。
「最初は、好きなものを好きって言う練習からでもいいかも」と提案すると、彼女は目を瞬かせ、それからほんの少し笑った。
「どんな強さが欲しい?」
彼女は驚いたように私を見た。
「……自分の気持ちを、自分の言葉で言える強さです」
セレスティーヌは言葉を続ける前に、膝の上で手を重ねた。
「魔法の試験も、うまくいきませんでした。私の《聖晶》は小さくて、すぐに割れてしまって。殿下には以前、守ることしかできない魔法など役に立たないと言われたこともあります」
私はすぐに否定しかけた。けれど、彼女が勇気を出して話してくれているのだと思い直し、最後まで耳を傾ける。
「だから、せめて振る舞いだけは完璧でいなくては、と。でも、何をしても間違っているような気がしてしまうのです」
「……私は、あの盾が好きです」
「え?」
「試験で見ました。きれいだったし、一度は風を止めたでしょう。もし誰かが転びそうになったとき、あの盾があれば助かるかもしれない。大きさより、どこでどう使うかが大事だと思います」
セレスティーヌは目を瞬かせた。私は慌てて付け足す。
「もちろん、使いすぎて倒れたら大変です。魔力には限りがありますし、盾が割れるときの衝撃にも気をつけないと。でも、一緒に練習すれば、もっとできることが増えるはずです」
「……練習を、お願いしてもいいのでしょうか」
「ぜひ! あ、私、剣の話ばかりしてしまうかもしれませんけど」
彼女が小さく吹き出した。
「それでも、お願いしたいです」
初めて聞く、飾りのない笑い声だった。私は胸の奥がほっと温かくなるのを感じた。魔法の盾を強くするより先に、彼女が自分の言葉を口にできた。それが今日いちばん嬉しかった。
「それなら、きっと一緒に練習できるよ」
剣ではなく、言葉で。
私にも覚えなくてはいけない戦い方があるのだと思った。




