第124話 庭を歩く理由
翌日の庭園には、冬の名残を押し返すように小さな花が咲いていた。
「ここを歩くのは、久しぶりです」
セレスティーヌは石畳の先を見つめた。
婚約者としての予定に追われていた頃、庭は移動のための通路でしかなかった。
「僕はよく来るよ。考え事をするときに」
「アレクシス様にも、考え事が?」
「僕だってするさ。エレナ嬢に一本取られたときなんか、三日くらい考えた」
思いがけない答えに、セレスティーヌは笑った。
「剣のことですか」
「最初はね。でも最後には、負けたことを恥ずかしがっていた自分のことを考えていた」
彼は木の枝を見上げた。
「君は、昨日からずいぶん大きなものを変えた。だから、今日くらいは何も決めなくていいと思う」
* * *
庭園の小径は、前夜の雨を吸って柔らかかった。
セレスティーヌが足を止めると、アレクシスも少し遅れて止まる。
急かされないことが、こんなに心地よいとは知らなかった。
「わたくし、以前は歩く速さまで気にしていたのです」
「速さ?」
「王族の隣では半歩後ろ。人前では顔を上げすぎず、下げすぎず。失礼のない距離を、いつも考えていました」
アレクシスは少し考え、足元の小石を靴先で避けた。
「俺は剣の間合いなら分かるが、人との距離はまだ勉強中だ」
「ふふ。では、同じですね」
風が吹き、低い枝から雫が落ちる。
セレスティーヌが肩をすくめるより先に、アレクシスは枝を押さえた。
大げさな仕草ではない。ただ彼女が通りやすいように、道を空けたのだ。
「今は、隣を歩いてもよろしいでしょうか」
「もちろん。……俺がそうしたい」
言った本人がわずかに目を逸らした。
セレスティーヌも頬が熱くなる。婚約が終わったからといって、すぐに新しい答えを出す必要はない。
ただ、誰かと並ぶ未来を想像することは、もう許されていた。
* * *
庭園の小径は、雨上がりの土の匂いがした。
アレクシスはセレスティーヌの歩幅に合わせ、少しだけ速度を落とす。
「以前なら、こうして歩くのも気を遣わせてしまっただろうね」
「今でも少し、気になります」
「それなら、今日は無理に話さなくていい」
沈黙の中で鳥が一声鳴いた。
セレスティーヌは、自分が何かを言わなければと焦っていないことに気づいた。
「アレクシス様は、どうしていつも待ってくださるのですか」
「急がせたくないから」
「それだけ?」
彼は困ったように笑う。
「君が自分で選んだ道を、君のものとして歩いてほしい。それに……君と並んで歩く時間が好きなんだ」
セレスティーヌは頬が熱くなるのを感じた。
以前なら、婚約者のいる身でこんな言葉を聞くこと自体を恐れただろう。
今はただ、答えを急いで壊したくなかった。
「わたくしも、今日のお庭が好きです」
「庭だけ?」
「……今は、それ以上聞かないでくださいませ」
アレクシスは声を立てて笑わなかった。
頷いて、また同じ速さで歩き始めた。
帰り際、エレナが遠くから二人を見つけて手を振った。
ルシアンはその隣で、小さく息を吐く。
「今は邪魔しないほうがいいよ」
「どうして?」
「……エレナは、本当に変わらないね」
「えっ、褒めてる?」
「半分くらい」
彼女は不満そうに頬を膨らませたが、ルシアンの手が袖を軽く引くと、素直に別の道へ曲がった。
* * *
庭園の東屋には、まだ冬の名残を思わせる冷たい風が吹いていた。
セレスティーヌは手袋を直しながら、先を歩くアレクシスの背を見つめる。
彼は歩幅を合わせている。気づけば、いつもそうだった。
「以前、演習場でわたくしが盾を失敗したときのことを覚えていますか」
「もちろん。君は悔しそうだった」
「恥ずかしかったんです。皆さんの役に立てないと思って」
「僕には、諦めずにもう一度試そうとする姿が印象に残っている」
褒め言葉に慣れていないわけではない。
けれど彼の言葉は、立場や容姿ではなく、自分が選んだ行動に向けられていた。
「アレクシス様は、なぜそこまで人をよく見ていらっしゃるのですか」
「父に、辺境伯家の剣は誰かを見下ろすためにあるのではないと教えられた。……それに、僕自身、強いだけでは足りないと何度も思い知らされてきたから」
彼は枝先の新芽を見上げた。
「君の盾に助けられたときも、そうだった。僕が前へ出られるのは、後ろを信じられるからだ」
セレスティーヌは返事を探した。
感謝を伝えたいのに、それだけでは足りない気がする。
だから、正直な言葉を選んだ。
「わたくし、これからは自分の望みを少しずつ知りたいんです。もしよろしければ、その時間に、ときどきご一緒していただけますか」
「喜んで」
アレクシスの声は穏やかだった。
彼は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
セレスティーヌが気づき、そっと手袋越しの指先を重ねる。
「今日は、わたくしからお願いしました」
「うん。忘れない」
東屋の外では、エレナが木の陰から二人を見つけ、慌てて顔を引っ込めていた。
「見ちゃった?」とルシアン。
「見てない! ……ちょっとしか」
「なら、そっとしておこう」
エレナは真剣に頷いたあと、しばらく考えて尋ねた。
「でも、手をつなぐのって、転びそうなとき以外にもするんだね」
ルシアンは一瞬言葉を失った。
「……そうだね。いつか説明する」
「それ、最近よく言うよね」
笑いをこらえたルシアンの横顔を、エレナは不思議そうに見上げた。
* * *
「……ありがとうございます」
二人はしばらく、並んで歩いた。
腕を組むことも、未来を約束することもなかった。
それでも、沈黙が気まずくない。
一方、王宮ではユリウスが別の文書を机に広げていた。
婚約見直しを妨げた異議書の配送記録である。
「宰相府に届く前、記録にない中継が一度あります」
アルベルトが眉を寄せた。
「侯爵家か?」
「まだ断定できません。ただ、中継に使われた印章は、王都の西区にある書記組合のものです」
フェルディナントは封蝋の欠片を小皿に置いた。
「魔法で署名を書き換えた痕跡はありません。むしろ、普通の手段で差し替えられた可能性が高い」
「地味な手口ほど、追うのは難しいな」とアルベルト。
クラウスは三人の報告を聞き、地図の一点に印をつけた。
「婚約の件は終わった。しかし、手続きに手を入れた者の目的は、まだ終わっていない」
「殿下、ヴィクトル先輩にも相談を?」
「必要な範囲でな。彼は領地の人間を守るために剣を振るう。王宮の都合で呼びつけるつもりはない」
ユリウスは微笑んだ。
「だからこそ、先輩は殿下を信頼しておられるのでしょう」
その夜、エレナは寮の窓から庭を眺めていた。
「セレスティーヌ、今日は楽しそうだったね」
「そうだね」とルシアン。
「誰かと歩くだけで、そんなに変わるのかな」
ルシアンは彼女の横顔を見た。
「相手によると思う」
「じゃあ、今度は私たちも歩こうよ」
「……うん。ぜひ」
ルシアンの返事が少し遅れた理由を、エレナはまだ知らなかった。




