第125話 静かな朝の異変
学院の朝食は、いつもより少し騒がしかった。
セレスティーヌの婚約解消は公表されたが、本人の周囲には意外なほど穏やかな空気が戻っていた。
ミレイユが新しい髪飾りを持ち込み、フィオナは寮の茶会の菓子を選んでいる。
「似合うと思うの」とミレイユ。
「派手ではありませんか?」
「今日は、あなたが選んでいい日よ」
セレスティーヌは青い小花の飾りを受け取り、鏡の前で小さく微笑んだ。
だが王宮では、別の種類の静けさが広がっていた。
「西区の書記組合が、昨日の夜に帳簿を焼却したそうです」
* * *
訓練場の空気が鋭く変わったのは、二度目の警笛が鳴った瞬間だった。
「後衛、右へ! 前列は退路を塞がないで!」
ノエルの指示に合わせ、見習い役の生徒たちが動く。
エレナは木剣を握り直した。
敵役は三人。正面の一人を倒すだけなら一息だ。
だが左には逃げ遅れた生徒役、右には狭い通路がある。
彼女は踏み込みを止めた。その半拍を見逃さず、敵役の木剣が肩へ伸びる。
「エレナ、上!」
ルシアンの声。
エレナは刃を斜めに受け流し、相手の重心を崩した。
風の術が足元の砂を払い、退路の目印がはっきり浮かぶ。
「今、通って!」
生徒役が走り抜ける。二人目の敵が背後へ回った。
エレナは振り向きざまに一撃を入れかけ、寸前で止める。
そこには味方の腕があった。剣先を引き、柄で相手の木剣を押さえ、体を入れ替える。
終了の笛が鳴ると、掌には汗が滲んでいた。
「勝つより難しいね」
「だから練習するんだよ」とルシアン。
エレナは頷いた。剣の速さを誇るだけでは守れない。
今日はそのことが、肩に残る軽い痛みと一緒に分かった。
* * *
実習の最後に、教師は二つの木製標的を追加した。
一つは前方の通路、もう一つは避難役の生徒の背後に現れる。
「どちらかを倒せば終わりではない。全員が安全な場所に到達するまでが課題だ」
エレナは木剣を構え直した。
正面の標的を一撃で倒せることは分かっている。
しかし、その間に後ろの標的が動けば、守るべき生徒のほうが危ない。
「ルシアン、右をお願い!」
「了解。風で動きを鈍らせる」
風が吹き抜け、後方の標的の軌道がずれた。
エレナは正面の標的を倒すと、振り返る勢いを抑えたまま横へ滑る。
木剣の腹で二つ目の標的を弾いた。
「力を入れすぎないで」とノエルが叫ぶ。「後ろに人がいる!」
「分かってる!」
その返事と同時に、エレナは足を止めた。
剣先が標的の首元に届く寸前で止まる。
勝つためではなく、止めるための剣だった。
終了の笛が鳴ると、教師は標的ではなく、避難した生徒の人数を数えた。
「全員無事。今日は合格だ」
エレナは嬉しそうに笑いかけ、すぐに首を傾げた。
「でも、前の標的をもっと早く倒せたかも」
「その速さが、必要なかったんだよ」とルシアン。
その言葉が胸に残った。
彼女の家では、強い者ほど誰かを守るために剣を取ると教わってきた。
けれど、守ることは倒すことより、ずっと細かな判断の積み重ねなのかもしれない。
* * *
王都の北門に近い工房街では、朝から煙の匂いが漂っていた。
前夜に火事があった書記組合の建物は、屋根の一部が黒く崩れ、入口に王国騎士団の封鎖線が張られている。
アルベルトは焼け跡を見つめ、部下に言った。
「焦げた紙片を踏むな。灰も証拠になる。見つけたものは位置を書いてから拾え」
「ですが、隊長。昨夜の雨で、ほとんど流れてしまっています」
「残っているものを数えよう。失ったものを嘆くのは、その後だ」
現場には、何者かが慌てて運び出したらしい木箱の跡があった。
車輪の幅が通常の荷馬車より狭い。
アルベルトは膝をつき、泥に残る線を指で測った。
そのとき、裏通りから叫び声が上がる。
見張りの兵が追っていた男が、積み上げられた樽を倒して逃げたのだ。
通りの向こうには、朝市へ向かう親子がいる。
「下がれ!」
アルベルトは駆け出した。倒れた樽を盾で受け止め、
子どもの前に転がり込む。次の瞬間、逃走者が短い刃を抜いて振り向いた。
剣を抜けば制圧は容易い。だが、狭い通りで振るえば周囲を巻き込む。
アルベルトは鞘を握り、刃の軌道を外へ逸らした。
足を払って相手を転がし、腕を捻って短剣を落とす。
「殺す気はない。話を聞きたいだけだ」
「知らねえ! 俺は運んだだけだ!」
「なら、誰の荷か話してもらおう」
王宮に戻ると、ユリウスが待っていた。
アルベルトの報告を聞くなり、彼は机に地図を広げる。
「車輪幅が一致する荷車は限られます。商会の登録簿を当たれば、運搬経路を絞れるでしょう」
「現場の火は消えた。だが、燃やした者の目的はまだ残っている」
窓際のクラウスは頷いた。
「証拠を追うだけでなく、次に狙われる人を考えよう。記録を守っていた書記官たちの安全を確かめてくれ」
その頃、学院のエレナは木剣を握り、演習の開始を待っていた。
王都のどこかで大人たちが戦っていることを、まだ知らない。
* * *
ユリウスの報告にクラウスが顔を上げる。
「火事か?」
「炉の点検を理由にした処分です。通常の保存期限には達していません」
「誰が命じた」
「組合長の署名があります。ただし、本人は療養中で不在でした」
アルベルトが拳を握る。
「逃げる前に押さえたい」
「急ぐな。証拠を守ることと、罪人を決めつけることは違う」とクラウス。
フェルディナントが地図を指した。
「焼却炉に使われた火の魔力を調べれば、燃やした時間帯を狭められるかもしれません。ただ、残留魔力はすぐ薄れます」
「正式な許可を取ってくれ。誰の権利も飛ばさずに」
午後、エレナは学院の実習で木剣を握っていた。
前方には動く標的、後方には避難役の生徒。いつもなら一息で片づけられる配置だ。
「今日は、標的を倒すより後ろを守るのが目的だよ」とルシアン。
「分かってる。……たぶん」
笛が鳴る。
エレナは踏み込みを半歩だけ抑えた。
ルシアンの風が避難路を確保し、ノエルが後方の生徒を誘導する。
終わってからエレナは不満そうに剣を見た。
「もっと速く動けたのに」
「速いことが正しいとは限らない」とルシアン。
その言葉を、彼女は夕方まで考え続けた。
王都のどこかで、誰かが書類を燃やした。
学院ではまだ、その意味を知る者はいない。
ただ、見えない火の粉が、ゆっくりと街へ降り始めていた。




