第123話 二つの家の決断
婚約解消の文書が調えられた日、ベルクハルト伯爵は娘を執務室に呼んだ。
「本当に、これでよいのだな」
父の声には、父親としての心配と、貴族としての苦渋が混じっていた。
「はい、お父様」
「王家との縁は、家にとって大きな意味を持っていた」
「存じています」
「だが、家のためにお前の人生を差し出せとは、もう言えない」
セレスティーヌは思わず顔を上げた。父は机の上の書類をそっと押しやった。
「もっと早く聞くべきだった。お前がどうしたいのかを」
言葉にできない思いが胸に満ちる。セレスティーヌは深く頭を下げた。
* * *
ベルクハルト家の応接室には、古い花の香りが残っていた。
セレスティーヌは幼い頃、王宮へ出向く前にこの部屋で礼法を繰り返した。
今日はその椅子に、初めて自分の意志で座っている。
「後悔しないか」
父の問いは短かった。怒鳴られるより、よほど答えにくい。
「後悔することは、きっとあると思います。けれど、あのまま何も言わなかったことを、もっと後悔したと思います」
父は長いあいだ黙っていた。母が茶器を置く音だけが響く。
「私たちは、お前を守っているつもりだった」
「分かっています。だから、わたくしも家を守るために嘘をつこうとしていました」
母が目元を押さえた。
セレスティーヌは立ち上がり、深く頭を下げる。許しを乞うためではない。
大切に育ててくれた二人へ、感謝を伝えるためだった。
帰りの馬車の窓から、王都の屋根が夕焼けに染まるのが見えた。
肩の荷がすべて消えたわけではない。明日から噂は増えるだろう。
それでも、今日だけは息が深く吸えた。
* * *
ハルデンベルク伯爵家から届いた茶葉を、エリザベートは丁寧に量った。
王都の屋敷に立ち寄ったヴィクトルは、いつものように剣帯を外してから席につく。
「殿下は、お疲れでは?」
「平気な顔をなさっているが、眠っていない日が続いている」
「ならば、休息を勧める方も必要ですわね」
「アルベルトたちが三人がかりで説得している」
エリザベートは微笑んだ。
「あなたも同じではありませんか。昨夜、遅くまで北方の報告を読んでいたでしょう」
「……どうして分かった?」
「机の上に、冷めたお茶が二杯ありました」
ヴィクトルは降参したように両手を上げた。
剣で勝てない相手はそう多くないが、暮らしの細部を見抜く彼女には、どうやら勝ち目がない。
一方、セレスティーヌの父は娘の前に座り、長い沈黙の後で口を開いた。
「家のために、耐えさせたことがあったな」
「お父様」
「私も王家との縁を誇りに思っていた。お前の顔を見るより先に、そのことを考えた日もある」
彼女は父の手に皺が増えていることに気づいた。
家を守る責任を背負っていたのは父も同じだ。それでも、傷ついた事実は消えない。
「これからは、わたくしの話を聞いてください」
「ああ。聞く」
短い約束だった。
けれど、どんな華やかな婚礼の言葉より、今の彼女には大切だった。
* * *
婚約解消の決定が伝えられた夜、ベルクハルト伯爵家の食卓はいつもより静かだった。
母は娘の皿に温かなスープをよそい、父は何度も言葉を選び直している。
「お前の将来について、私たちは王家に遠慮しすぎたのかもしれない」
伯爵が口を開くと、セレスティーヌは首を振った。
「お父様もお母様も、わたくしのために良い道を選ぼうとしてくださったのでしょう」
「だが、良い道かどうかを決めるのは、歩く本人だ」
父の言葉に、母が静かに頷く。
「明日から何をしたい?」
唐突な問いだった。
婚約者としての予定は、季節ごとに決められていた。
茶会、礼法、王宮での挨拶。
そこから解放されて初めて、自分の予定が空白になっていると気づく。
「学院の授業を、もっと受けたいです。特に魔法の応用を。それから……友人たちと過ごす時間も」
「それでいい」
伯爵は小さく笑った。
「何かを成し遂げなくても、明日を楽しみにしてよいのだよ」
食後、セレスティーヌは自室の机から、
かつて王宮で使うために作られた予定表を取り出した。
びっしり埋まった文字の隣に、初めて自分で予定を書き込む。
『学院の庭を歩く』それだけなのに、胸が少し温かくなった。
一方、王宮ではクラウスが弟の報告書を読み終えていた。
フェリクスは窓の外を見つめたまま言う。
「兄上は、僕を軽蔑しているだろう」
「していない。ただ、お前がしたことの責任は消えない」
「分かっている」
「分かっているなら、ここから何をするか考えろ。王族である前に、一人の人間としてだ」
フェリクスは返事をしなかった。
クラウスもそれ以上追わない。
兄弟の間に積もった年月は、一晩の説教で片づくものではなかった。
その夜遅く、ユリウスが別の報告を持ってきた。
婚約解消に反対する書面を持ち込んだ人物の動線に、侯爵家の代理商人の名があったという。
「手続きが終わったからといって、調査を止めるわけにはいきませんね」
「もちろんだ。セレスティーヌ嬢の人生を、政治の道具に使った者がいるなら、そこは別に明らかにする」
クラウスは書面を閉じた。
誰かの自由を取り戻すことと、国の秩序を守ること。
その両方を、これから果たさなければならなかった。
* * *
王宮では、フェリクスが婚約解消の承認書に署名した。
隣でイザベラが何か言いかけたが、彼は首を振る。
「今は、誰かに何かを約束する気にはなれない」
それは初めて、周囲の望む言葉ではなく自分の言葉を選んだ瞬間だった。
遅すぎたとしても、何も変わらないわけではない。
正式な通達は夕方に届いた。
王家とベルクハルト伯爵家は、双方の合意により婚約を解消する。
セレスティーヌに非は認められず、両家の関係は礼節をもって維持される――。
紙を読み終えたセレスティーヌは、長く息を吐いた。
「終わったのね」
「ええ」とミレイユ。「そして、始まるのよ」
アレクシスは少し離れたところで待っていた。
皆が落ち着いてから、彼は彼女へ一歩近づく。
「おめでとう、と言っていいのかな」
「まだ分かりません。ほっとしているのに、寂しくもあるんです」
「それなら、今日は無理に笑わなくていい」
セレスティーヌは初めて、彼の言葉に胸が温かくなるのをはっきりと意識した。
誰かの婚約者ではなくなった自分に、彼は何も求めていない。
「アレクシス様」
「うん?」
「明日、もしお時間があれば、学院の庭を一緒に歩いていただけますか」
アレクシスは一瞬だけ目を見開き、それから笑った。
「喜んで」
窓辺でその様子を見ていたエレナは、ルシアンへ小声で尋ねた。
「ねえ、今のって、何か特別なこと?」
「……エレナには、もう少し後で説明するよ」
「なんで?」
ルシアンは答えず、窓の外へ視線を逃がした。
エレナが不思議そうに首を傾げる横で、フィオナとノエルが笑いをこらえていた。




