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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第二部「王国の陰謀編」

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第122話 王子の沈黙

フェリクスは、王宮の小広間で初めて、自分のために用意された椅子が遠いと感じた。


向かいにはセレスティーヌが座っている。

父王と王妃、両家の代理人、そして記録官。クラウスは少し離れた場所で、口を挟まずに見守っていた。


「婚約の継続について、当事者の意思を確かめる」


王の言葉に、フェリクスは顔を上げた。


「私は……婚約を破棄したいと、前から」


「その言葉を、誰の前で、どのように告げた?」


答えられなかった。

学院の廊下で突き放したことはある。

友人たちの前で恥をかかせたこともある。

だが正式な申し入れを行い、相手の家と話し合ったことは一度もない。


セレスティーヌは膝の上で指を重ねた。


 * * *


謁見室を出たフェリクスは、人気のない回廊で足を止めた。

磨かれた床に映る自分の姿が、ひどく頼りなく見えた。


「フェリクス」


後ろから声を掛けたのはクラウスだった。兄の表情には怒りよりも疲労があった。


「兄上は、私を裁きに来たのですか」


「裁くのは父上と法だ。私は、弟と話しに来た」


フェリクスは唇を噛む。

誰かに褒められるたび、王太子の兄と比べられるたび、取り返したいものが増えていった。

婚約者が自分を見ていないと思ったとき、先に目を背けたのは自分だったのに。


「彼女が何も言わなければ、私は間違っていないことになったのに」


「それは違う。黙っている者にも意思はある」


遠くで鐘が鳴った。

クラウスは弟に近づきすぎず、声を落とした。


「これから何をするかは、お前が決めることだ。ただし、他人の人生を使って取り戻そうとするな」


フェリクスは答えなかった。

兄も返事を求めなかった。長い回廊に二人分の影が伸び、やがて別々の方向へ動き出した。


 * * *


謁見が終わった後、フェリクスは人気のない柱廊に立ち尽くしていた。

夕陽が白い床に長い影を落とす。


「兄上は、最初から私を裁くつもりだったのでしょう」


背後にいたクラウスはすぐには答えなかった。


「私は、お前に答える機会を用意した。答えたのはお前自身だ」


「誰も私の気持ちなど聞かなかった」


「セレスティーヌ嬢の気持ちを、お前は聞いたか?」


フェリクスは唇を噛んだ。

反論しようとしても、学院の廊下で彼女が何を言っていたのか思い出せない。

覚えているのは、自分が腹を立てていたことだけだった。


「……あの女は、いつも正しい顔をしていた」


「正しさに腹が立つ日もある。だが、相手を傷つけてよい理由にはならない」


クラウスは責め立てなかった。

それがかえってフェリクスには苦しかった。



夜、セレスティーヌのもとに伯爵家から小さな箱が届いた。

母が幼い頃に贈ってくれた、銀の留め具がついた手帳だった。

最初の頁には『望むことを、自分の字で書きなさい』とある。


彼女は長い間、そこに王妃としての務めや礼儀ばかり書いてきた。

今夜は新しい頁を開いた。


『学院を卒業したら、領内の小さな学校を訪ねたい。子どもたちが冬でも本を読める場所を作りたい』


書き終えてから、思わず笑った。

婚約の行方が決まったのに、明日のことがまだ怖い。

けれど、その怖さは、何も選べない怖さとは違っていた。


 * * *


王宮の小会議室には、剣を帯びた護衛も、華やかな調度もなかった。

あるのは向かい合う椅子と、互いの言葉を記録する書記官の机だけだった。


フェリクスは窓際に立ち、セレスティーヌが入ってきてもすぐには振り返らなかった。

以前なら彼女は、その沈黙の意味を推し量り、相手の機嫌を損ねない言葉を探しただろう。


今日は、そうしなかった。


「殿下。お時間をいただき、ありがとうございます」


「……礼を言われることではない」


彼の声は硬い。セレスティーヌは椅子に座り、膝の上で指を組んだ。


「わたくしは、婚約の解消を希望しております」


「知っている。兄上から聞いた」


「では、殿下のお考えを聞かせてください」


フェリクスはようやく振り向いた。


「僕が悪かったと言えば満足するのか」


「満足するために来たのではありません。わたくしたちが、なぜ同じ場所に立てなくなったのかを確かめたいのです」


「僕は王子だ。誰もが僕の振る舞いに意味を求める。君まで、僕に正しい答えを求めるのか」


その声に怒りよりも疲労が混じっていると気づき、セレスティーヌの胸が痛んだ。

しかし、同情で答えを変えることは、彼にも自分にも誠実ではない。


「正しい答えを求めているのではありません。殿下が本当に望む未来を聞きたいのです」


フェリクスは唇を噛んだ。長い沈黙のあと、窓の外へ視線を逃がす。


「君は、僕を怖がっていたのだろう」


「……はい」


「そうか」


その短い言葉が、今日初めて交わされた率直な会話だった。

書記官の羽根ペンが紙を擦る音だけが続く。


「僕は、君にどう接してよいか分からなかった。兄上と比べられるたびに、君の前でさえ立派な王子でいなければならないと思っていた」


「わたくしも、完璧な婚約者であろうとして、言いたいことを飲み込んでいました」


 それでも、取り戻せない時間がある。二人は互いを見つめたまま、ようやくその事実を認めた。


部屋を出る直前、フェリクスが言った。


「君が悪いと、皆に言うつもりはない」


「ありがとうございます。でも、わたくしも殿下を責めるために生きるつもりはありません」


扉が閉じる。廊下に立ったセレスティーヌは、冷えた指をそっと握った。

勝利でも敗北でもない。それは、長い約束の終わりへ向けた、二人の最初の誠実さだった。


 * * *


「わたくしも、婚約の解消を望みます」


フェリクスが驚いて顔を向ける。


「あなたまで、私を見捨てるのか」


「見捨てるのではありません。殿下がわたくしを望まないことも、わたくしがこの関係を続けられないことも、同じように尊重されるべきだと思うのです」


「綺麗事だ」


「そうかもしれません。それでも、これがわたくしの答えです」


静かな声だった。誰かの後ろ盾を誇る声ではなかった。


王妃がそっと扇を閉じた。王はしばらく沈黙し、両家の代理人へ向き直る。


「婚約解消に向けた最終確認を進める。公表に際しては、どちらか一方を罪人に仕立てることを禁じる」


会談を終えて廊下に出たセレスティーヌは、急に足元が頼りなくなった。

壁へ手をつくと、控えていた侍女が駆け寄る。


「お嬢様」


「大丈夫。少しだけ、息を整えさせて」


大丈夫と言った途端、涙がこぼれた。嬉しいのか悲しいのか、自分でも分からなかった。


学院に戻ると、ミレイユが何も尋ねずに抱きしめてくれた。エレナは隣で拳を握っている。


「誰か、ひどいこと言った?」


「いいえ。今日は、わたくしが言いたいことを言えたの」


「そっか」


エレナは拳を開き、彼女の手を握った。


その夜、セレスティーヌはいつもより早く寝台に入った。

自由になることは、突然軽くなることではない。

背負っていたものの形が変わり、その重さを改めて知ることなのだ。


窓の向こうで王都の鐘が鳴る。

明日はまだ、正式な結論の日ではない。それでも、今日は確かに前へ進んだ。


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