第121話 署名の向こうにいる人
王宮の書記官が差し出したのは、三通の返書だった。
「異議書に名を連ねた三名のうち、二名は署名を認めていません」
ユリウスの声は平静だった。けれど、その指先は紙の端を強く押さえている。
「残る一名は?」
「署名は自分のものだと。ただし、婚約解消への異議とは知らされていなかったそうです」
クラウスは目を閉じた。
父王の前へ報告するには、まだ足りない。筆跡が違うことと、誰が偽造したかは別の問題だ。
「本人たちの証言を保全しよう。ユリウス、記録の経路を追ってくれ。アルベルトには証言者の安全を。フェルディナントは、書面に魔法の干渉があったかだけを調べる。結論を先に決めるな」
「承知しました、殿下」
同じ頃、学院ではセレスティーヌが伯爵家の代理人から説明を受けていた。
「お嬢様。手続きが動くとしても、第二王子殿下の立場を傷つけると非難する者はいるでしょう」
「分かっています」
* * *
午後の雨は細く、学院の窓硝子に何本もの銀色の線を引いていた。
セレスティーヌは便箋を前にして、三度筆を置いた。
父へ送る手紙には、手続きの進み具合ではなく、自分が何を望むのかを書こうとしていた。
けれど「婚約を解消したい」と書けば、それまで王家との縁を守ってきた家族の努力まで否定するようで、指が止まる。
「言葉にするのって、難しいね」
隣でエレナが小さく言った。彼女は剣の手入れを終え、油を拭った布を丁寧に畳んでいる。
「エレナ様なら、迷わずお決めになるのでしょう?」
「ううん。剣を振るときだって迷うよ。相手を倒すだけなら簡単でも、誰かが後ろにいたら違うもの」
セレスティーヌは顔を上げた。エレナは照れくさそうに笑う。
「でも、迷ってる間に誰かに決められちゃうのは嫌かな。セレスティーヌが選んだことなら、私はその隣にいるよ」
窓の外で雨粒が一つ、別の筋と重なった。
セレスティーヌは新しい便箋を取り出し、最初の一行を書いた。
『お父様、わたくし自身の言葉でお伝えしたいことがあります。』
震えは消えなかった。
それでも、文字は最後まで途切れなかった。
* * *
その日の昼、王宮の西回廊で、ユリウスは書記官の一人に呼び止められた。
「リーデン様。返書を預かった使者が、今朝から姿を見せません」
「失踪と決めるには早い。まず勤務記録と帰宅先を確認してください」
急いで断定すれば、相手に逃げ道を与える。
学院時代、ヴィクトルが負傷した後輩を抱えて訓練場を横切ったときも、クラウスは同じことを言った。
『まず助ける。責任を問うのは、それからだ』。
ユリウスはその教えを思い出した。
使者は城門脇の詰所で見つかった。顔色を失い、手の中で帽子を握り潰している。
「私が封を切ったのではありません。届けろと言われただけです」
「誰に?」
「知らない男です。家族の名を知っていました。断れば妹の勤め先へ行くと……」
ユリウスは追及をやめ、アルベルトを呼んだ。
妹の安全を確認しなければ、証言は脅迫の影に沈んだままだ。
「怖かったでしょう。ですが、今は一人で抱えなくていい」
使者は初めて顔を上げた。
同じ頃、温室を出たセレスティーヌは、廊下でイザベラとすれ違った。
侯爵令嬢は微笑まなかった。
「王家との婚約を手放すなんて、理解できませんわ」
「手放したのは、望まれないまま続ける約束です」
「強がりね」
「そうかもしれません。でも、わたくしが答えるべき相手は、あなたではありません」
足は震えていた。それでも、振り返らずに歩けた。
廊下の角では、エレナが何も聞かなかったふりをして待っていた。
「一緒に帰ろう」
「ええ」
手を差し出されることと、手を引かれて連れていかれることは違う。
その違いを、セレスティーヌはようやく自分の言葉で説明できるようになっていた。
* * *
その日の午後、セレスティーヌは学院の図書室で一枚の古い婚約規定を開いていた。
何度読んでも、文字の並びは変わらない。
王族の婚約は当事者の意思だけで成立するものではない。
家と家の約束であり、国の都合を背負う。幼い頃から、そう教えられてきた。
「難しい顔をしているね」
顔を上げると、ルシアンが本を抱えて立っていた。
その後ろでエレナが、棚の陰からひょっこり顔を出す。
「私なら、こんなに難しい本を読んでいたら三分で寝ちゃう」
「エレナ、それは自慢にならないよ」
「でも剣術書なら一晩中読めるよ?」
いつものやり取りに、セレスティーヌは思わず笑った。
笑ったことに自分で驚く。
今朝からずっと、笑う資格などないような気がしていたからだ。
「わたくし、王子殿下を悪者にしたいわけではないのです」
エレナは椅子を引き、正面に座った。
「うん」
「けれど、傷ついたことをなかったことにもできません。両方を望むのは、わがままでしょうか」
「違うと思う。相手を傷つけたくないことと、自分が我慢することは別だよ」
迷いのない返答だった。
セレスティーヌは本の端を撫でる。
友人の言葉が正しいと分かっていても、胸の奥の罪悪感はすぐには消えない。
ルシアンは机に薄い本を置いた。王国の歴代婚約事例をまとめた資料だった。
「王家の婚約が解消された例もある。もちろん事情は違うけど、誰かが前例を作ったから今の制度があるんだ。君が一人で国の歴史を壊すわけじゃない」
「……ありがとうございます」
「ただ、読んでいるだけでは解決しないこともある。明日は当事者の言葉を聞く場になるはずだ」
セレスティーヌはゆっくり頷いた。
胸の奥にある恐怖を消す方法は分からない。
だが、その恐怖を抱えたまま席に着くことなら、できるかもしれない。
図書室を出る頃、窓の外に夕日が差していた。
エレナが扉を押さえて待つ。
セレスティーヌは本を閉じ、自分の足でそこへ歩いた。
* * *
「それでも、お望みですか」
窓の外では雨が上がり、葉先から水滴が落ちていた。
「わたくしは、殿下を傷つけたいのではありません。互いを尊重できないまま、夫婦になる約束を続けたくないのです」
代理人はしばらく彼女を見つめ、深く頭を下げた。
「その言葉を、そのままお伝えします」
放課後、エレナたちは学院の小さな温室に集まった。
ミレイユが茶器を並べ、フィオナが配送組合の噂を整理する。
「王宮の決定前に、街では『伯爵令嬢が王家に背いた』なんて話まで流れているわ」とミレイユ。
「誰が言い始めたの?」とエレナ。
「それを探るのは私たちの仕事じゃない。でも、嘘を広めないことはできる」
フィオナが頷く。ノエルはセレスティーヌの手元に、温かい茶を置いた。
「怖い?」
「ええ。怖いわ」
セレスティーヌは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「それでも、怖くないふりをするより、皆にそう言える今のほうが、少し楽です」
アレクシスは向かいの席から静かに言った。
「僕にできることがあれば言ってほしい。ただ、君の代わりに決めることはしない」
「ありがとうございます」
彼の言葉に救われながら、セレスティーヌはその優しさを、まだ恋とは呼ばなかった。
約束の結末が決まるまでは、自分の足で立つことに集中したかった。
夕刻、クラウスは父王に三通の返書を提出した。
「本人確認を経ない異議書は、協議を止める根拠になりません」
王は息子を見た。
「では、当事者を呼べ」
「はい。二人が、それぞれ自分の言葉で答えられる場を」
長く閉じられていた扉が、ようやく内側から開き始めた。




