第120話 届かなかった承認
王宮からの知らせが届いたのは、冷たい雨の朝だった。
セレスティーヌは封筒を手にしたまま、寮の談話室で立ち尽くした。
王家とベルクハルト伯爵家による婚約見直しの協議を正式に開始する。
文面は簡潔だった。だが、その一行にたどり着くまで、どれほど長く感じたことだろう。
「始まるのね」とミレイユ。
「ええ。まだ終わりではないけれど」
セレスティーヌは封筒を机に置いた。
嬉しさと恐ろしさが同時に湧く。自分の願いが誰かを困らせることもある。
それでも、何も言わずに戻ることはもうできない。
談話室の窓には雨粒が幾筋も流れていた。
セレスティーヌは知らせの文面をもう一度読み、端を丁寧に揃える。
「正式に始まるということは、終わるまで時間がかかるということでもあるのね」
「そうね」とミレイユ。「でも、始める前と同じ場所にはいないわ」
「お父様にも、経過を尋ねていいのかしら」
「もちろん」とフィオナ。「ただ、答えがすぐ来なくても、自分を責めないで」
ノエルは彼女の濡れた袖口に気づき、乾いた布を差し出した。
承認が止まったという知らせは、短い文書で届いた。
セレスティーヌは同じ一文を何度も読んだ。
必要な確認が完了していないため、審議を継続する。理由は記されているのに、いつ終わるかは書かれていない。
「また、わたくしの言葉が届かなかったのかしら」
思わず漏れた声に、ミレイユが首を横に振った。
「届かなかったのと、結論が出なかったのは違うわ。そこは分けて考えましょう」
「でも、待つあいだに、何もかも元どおりになってしまいそうで」
「元どおりにはならないよ」とエレナが言った。「セレスティーヌが言ったこと、私たちは知ってる」
「私たちが知っているだけでは、王宮の手続きは進まない」とルシアンは穏やかに付け加えた。「だから正式な照会が必要なんだ。誰かを責めるためじゃなく、止まっている場所を確かめるために」
その言葉は冷たくなかった。
感情を否定せずに、次の行動を示してくれる。
セレスティーヌは文書を折り直し、深く息を吐いた。
同じ頃、クラウスは書類の不足箇所を確認していた。
署名の一つが照合待ちとなり、王宮内の別部署へ問い合わせが回っている。
担当者は慎重に説明した。
「形式上の不備である可能性もあります。現段階で、故意の妨害とは断定できません」
「分かっている。だからこそ、順序を飛ばさずに確かめる」
クラウスは窓の外へ視線を向けた。
誰かが結論を急がせれば、今度はその手続き自体が疑われる。
時間をかけることが正しい場合もある。
しかし、その時間の重さを負うのは書類ではなく人間だ。
「本人には、進捗と次の確認予定を伝えてくれ。理由の分からないまま待たせるべきではない」
夕方、セレスティーヌは寮の談話室で友人たちと茶器を並べた。
アレクシスが重い湯差しを持とうとすると、彼女は笑って首を振る。
「ありがとうございます。でも、これはわたくしが運べます」
「そうだね。じゃあ、僕は椅子を出すよ」
彼は自然に引き下がった。その気遣いが、セレスティーヌには心地よかった。
湯気の向こうで、エレナが明日の剣術実習の話を始める。
ルシアンが無茶な目標をたしなめ、フィオナが笑い、ノエルが菓子を分けた。
婚約の結論が出ていない夜にも、温かな時間はある。
セレスティーヌはそのことを、忘れずにいたいと思った。
「雨の中を急いで来たんでしょう。まず温まって」
セレスティーヌは布を受け取った。
昔なら、返事が遅いのは自分に価値がないからだと考えただろう。
今は、手続きには時間が必要だと知っている。
知っていても不安は消えないが、不安を抱えたまま過ごす方法は少しずつ覚えてきた。
王宮ではクラウスが、協議開始の書類を確認していた。ところが、必要な承認の一つが届いていない。
「王家の内部確認は済んでいるはずだが」
側近が頭を下げる。「第二王子殿下の周辺から、婚約見直しに異議を唱える意見書が提出されました。内容の確認が必要です」
クラウスは眉を寄せた。「提出者は?」
「複数名です。ただ、署名の一部が本人の筆跡と一致しない可能性があります」
「ならば、真偽を確かめるまで扱いを保留する。異議があることと、正しい異議であることは別だ」
クラウスは意見書の署名欄に目を落とした。
筆跡が似ていないという報告だけで、直ちに偽造と断じることはできない。
代理筆記が許された事情もあり得るからだ。
「署名したとされる本人に、正式な方法で意思を確認する」
ユリウスが一歩前に出た。
「殿下、宰相府の手続きに従い、署名者への照会を進めます。アルベルトには、必要になった場合の安全確保だけをお願いしております」
「フェルディナントは?」
「魔法師団として調べるべき根拠が見つかれば協力するとのことです。今は通常の文書照合を優先します」
「それでいい。三人の力を借りるのは、事実を守るためだ」
ユリウスは頭を下げかけ、ふと苦笑した。
「こういう折、ヴィクトル先輩が王都にいてくださればと思います」
「またその話か」
「アルベルトもフェルディナントも同じ考えです。殿下の側近にお迎えできればと」
クラウスは微かに笑みを浮かべた。
「ヴィクトルにはリーヴェルト領がある。それに、エリザベート嬢との未来もな。本人の意思を置き去りにしては、私たちが今していることと矛盾するだろう」
「……おっしゃるとおりです」
ユリウスは素直に頷いた。
それでも、いつか先輩と同じ執務室で働けたらという願いまでは、手放していなかった。
「その間、承認手続きは止まります」
「止めるのは結論だけだ。調査と協議の準備は続けられる」
――承認が届かず落ち着かない日。
学院の訓練場では、雨音のする屋内訓練場と木製の移動標的が用意されていた。
今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。
だが、彼が言いたいことも分かる。結果を待つ間も自分たちにできることを積み重ねる。
そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。
エレナが標的の打点を外さず止め、ルシアンが風で横滑りを抑え、アレクシスが《金剛》で最後の一撃を受ける。
木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。
三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。
セレスティーヌが「待つだけの日ではなかった」と静かに笑う。
勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
側近は少し驚いた顔をした。
「異議を申し立てる権利は守る。だが、確認の取れない書面だけで、当事者の意思を永久に棚上げすることはできない」
クラウスは新たな照会文に目を通した。窓の向こうで雨が強くなり、硝子を叩く音が響く。
「弟にも、伯爵家にも、同じ説明を届けてくれ」
書記官が頭を下げる。彼の手元では、まだ乾ききらないインクが淡く光っていた。
そのころ侯爵邸では、ハインリヒが王宮の動きを聞いていた。
「協議そのものは止められなかったか」
「はい。しかし、手続きは遅れています」
「遅れは時間を生む。時間があれば、選べる手も増える」
ハインリヒは淡々と言った。
イザベラは父の隣で唇を結ぶ。自分が望んだのは王子の隣の席だった。
けれど、その席に至る道が、いつの間にか知らない人々の書類と駆け引きで埋め尽くされている。
「お父様。わたくしの意思は……」
「今は余計な発言を控えなさい」
イザベラは口を閉じた。
セレスティーヌが何度も味わった沈黙の苦さを、彼女は初めて少しだけ知った。
学院では、七人が昼食を終えたあとも席を立たずにいた。
「また待つことになったのね」とノエル。
「ええ。でも、今度は理由を尋ねることができます」とセレスティーヌ。
「そうだね」とアレクシス。「手続きが遅れるなら、どこで止まっているか確認できる」
「僕たちが直接動くのではなく、伯爵家と王宮の正式な窓口を通すべきだ」とルシアン。
フィオナが頷いた。「それなら、余計な噂も減らせるかもしれない」
エレナは少し考えてから言った。
「じゃあ、今日は何をする?」
セレスティーヌは驚いて顔を上げる。皆が答えを待っていた。
「……今日は、普通に授業を受けたいわ。夜は、皆とお茶を飲みたい」
「決まり!」とエレナ。
小さな笑いが広がる。
午後の魔法実習で、セレスティーヌは薄い銀白の盾を生み出した。
五秒。六秒目には、いつもどおり光がほどける。けれど、彼女は失敗したとは思わなかった。
「今できることを、正確に」
マリアンヌから教わったというエレナの言葉を思い出し、静かに息を吐く。
その夜、クラウスの机には、署名確認の結果を待つ書類が積まれていた。
婚約の結論はまだ出ない。けれど、誰かの意思を押しつぶして決めることだけは避けなければならない。
雨が窓を叩く。王都の灯りは滲み、遠く見えた。
セレスティーヌは寮の窓からその光を眺めた。
明日、また何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。
それでも、自分の望みを言葉にできたことは、もう誰にも奪えない。




