第5話 五人の令嬢と昼食の約束
学院の食堂は、想像していたよりずっと賑やかだった。
食堂の扉を開けた瞬間、焼いた肉の香ばしい匂いと、幾重にも重なる話し声が押し寄せてきた。銀の食器が触れ合う軽い音、椅子を引く音、窓辺で笑う上級生の声。寮の部屋で一人になったときの静けさが嘘のようだ。
私は盆の上のスープをこぼさないよう慎重に歩いた。剣を持っているときなら人の流れを読むのは得意なのに、熱い皿を持っていると途端に勝手が違う。人にぶつからないよう右へ左へ避けるうち、どこに座ればいいのかわからなくなってしまった。
長い卓には温かなスープと焼きたてのパンが並び、窓からは中庭の花壇が見える。私は盆を持ったまま、空いている席を探していた。
「リーヴェルト様、こちらよ!」
ミレイユが手を振った。隣にはセレスティーヌが座っている。
「ご一緒してもいい?」
「もちろん。昨日のことも、ちゃんとお礼を言いたかったの」
私は席につき、ほっと息をついた。
セレスティーヌの前には、まだ手をつけていないパンがあった。ミレイユはそれに気づいているらしく、わざと明るい調子でスープの話を始める。
「王都の食堂って、もっと気取った料理ばかりかと思っていたわ」
「北ではこういう煮込みをよく食べます。寒い日は特に」と私が答えると、セレスティーヌも小さくうなずいた。「家でも冬に出ます。母が好きで」
その声が少しだけ柔らかくなったので、私は安心した。無理に元気づけるより、一緒に食事をするほうがよい日もあるのかもしれない。
「そんなに改まらなくても。式次第を拾っただけですから」
「それだけじゃないわ」
セレスティーヌの声は小さかった。私はそれ以上追及せず、パンを一口ちぎった。
そこへ、蜂蜜色の髪の少女が近づいてきた。
「ミレイユ、ここ、空いてる?」
「フィオナ! 久しぶりね。もちろんよ」
フィオナ・ウェストフィールド。王都に本店を置くウェストフィールド商会の家の令嬢だという。
「ラングフォード商会の新しい布、見たわよ。うちの港の染料を使ったんでしょう?」
「そうよ。でもその染料、少し値が張るのよね」
「品質には自信があるわ」
二人は笑顔で商売の話を始めた。
「ところで、あの青い染料は色落ちしないの?」とミレイユが尋ねる。「洗い方によるわね。うちの商会では水質まで試したものを扱っているの」とフィオナが答えた。
私は二人の会話を感心して聞いた。服を選ぶとき、私は動きやすさと丈夫さばかり気にしている。けれど、布一枚の向こうには、染料を運ぶ人、織る人、仕立てる人がいる。
「剣の握り革も、仕入れ先でずいぶん違いますよね」と言うと、二人が同時にこちらを見た。「そこにつながるの?」とミレイユが笑い、フィオナは「でも、品質を見る目は同じかも」と真面目に考えてくれた。以前から商会の集まりで顔を合わせていたらしいが、こうしてゆっくり話すのは初めてだそうだ。
「……あの、こちらに座っても?」
控えめな声がした。小柄な少女が盆を抱え、立ち尽くしている。短い薄茶色の髪と、青緑色の瞳。
「もちろん!」
私が椅子を引くと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「ノエル・アシュフォードです。薬草学の本を読んでいたら、席がなくなってしまって……」
「薬草学! 私も好きです。白銀の森でよく採集していました」
「白銀の森……北方の?」
「はい。祖母と一緒に」
ノエルは初めて興味を隠さず、身を乗り出した。
「霜花草って、本当に雪の下で花を咲かせるんですか?」
「咲きますよ。ただ、根を傷めると翌年は生えにくいので、摘むときは――」
気がつけば、私は身振りまでつけて説明していた。
「リーヴェルト様は薬草にも詳しいのね」
セレスティーヌが感心する。
「剣の稽古で擦り傷を作るので、必要に迫られて」
話題が魔法の授業に移ったのは、フィオナが明日の時間割を広げたときだった。
「実技の適性確認、少し緊張するわね」とノエルが言う。「私は治癒術式なら好きだけど、人前だと失敗しそうで」
「アシュフォード様は本を読んでいるとき、すごく楽しそう。きっと大丈夫」と私が答える。
ミレイユは指先で時間割を押さえた。「ベルクハルト様には結晶の魔法があるでしょう。あれ、私はとても素敵だと思うの」
セレスティーヌはパンを持つ手を止めた。
「……《聖晶》のこと? でも、私が作れるのは小さな盾だけです。大きな火球や強い風を起こせるわけでもありませんし」
「盾なら、誰かを守れるじゃないですか」
私は思わず身を乗り出した。祖父はよく、剣を振るうより仲間を無事に帰すほうが難しいと言っていた。攻撃を止める力は、私には十分に立派に思える。
「それに、形を保つのは難しそうです。私、見てみたいな」
セレスティーヌは戸惑いながらも、かすかに笑った。
「……いつか、もう少し上手になったら」
「上手になる前でも見せてください。練習なら一緒にできますから」
フィオナが頷く。「壊れにくい素材の研究なら、商会の本にもありそうね」
「魔法の結晶と鉱物は違うでしょう?」とミレイユが笑う。
「違うからこそ、比べてみたいのよ」
私たちは笑った。セレスティーヌだけは少し驚いた顔をしていたけれど、その手はもう固く握られていなかった。
「……擦り傷だけ?」
ミレイユの問いには、笑ってごまかした。
食堂の窓から差す陽光が、卓上の果実水を琥珀色に透かしていた。皿の端にはパン屑が少し残り、遠くの席では上級生たちが試験の噂に声を弾ませている。
そんな穏やかなざわめきの中で、ミレイユがふと首を傾げた。
「ねえ、ひとつ提案してもいいかしら」
「なあに?」とフィオナが答える。
「さっきから家名で呼んだり、様を付けたり。なんだか、初めて顔を合わせたお茶会みたいじゃない? せっかく同じ学院に入ったのだから、友達同士では名前だけで呼び合わない?」
思わず私は顔を上げた。
辺境の家では、幼いころから親しい相手を名前で呼ぶのが当たり前だった。けれど王都の貴族社会では、家名ひとつにも意味がある。相手を軽んじたと思われないか気にして、私はいつの間にか言葉を選びすぎていた。
「私も、そうしてもらえたら嬉しいです」
「ほら、エレナは賛成ね」
ミレイユは私を見て、わざと大げさに片目をつぶった。
「もう呼んでるじゃない」とフィオナが笑う。
「だって、先に始めたほうが言いやすいでしょう?」
ノエルは両手でカップを包んだまま、小さく頷いた。
「……私も。家名で呼ばれると、先生に指名されたみたいで緊張するから」
「それ、わかるわ!」
フィオナが勢いよく身を乗り出し、危うく果実水を倒しかけた。ミレイユが素早くグラスを押さえる。
「まずは落ち着いて、フィオナ」
「ありがとう、ミレイユ。……ね、こんなふうに呼べたら気楽でしょう?」
笑い声が重なった。
ただ一人、セレスティーヌは膝の上に手を揃え、少し迷っているようだった。視線が卓の木目に落ちる。
「セレスティーヌ?」
私がそっと呼ぶと、彼女の肩がわずかに揺れた。
「……ごめんなさい。嫌なのではないの。ただ、私がそんなふうに呼んで、本当にいいのかしらと思って」
「もちろんよ。あなたも同じ学院の生徒だもの」
ミレイユの声は優しかった。
「でも、私は……」
その先の言葉を、セレスティーヌは飲み込んだ。第二王子の婚約者という立場が、彼女の口を重くしているのかもしれない。私には、その重さを全部理解することはできない。
だから、わかったふりをする代わりに、思っていることだけを伝えた。
「私は、セレスティーヌと友達になりたいです。だから名前で呼んでもらえたら、すごく嬉しい」
セレスティーヌが顔を上げる。
「……友達に?」
「はい。もちろん、嫌なら無理にとは言いません」
「嫌なわけ、ないわ」
返ってきた声は小さかったけれど、はっきりしていた。
彼女は一度だけ息を吸い、私たちを順番に見た。
「エレナ。ミレイユ。ノエル。フィオナ。……これから、よろしくね」
「こちらこそ、セレスティーヌ!」
フィオナがすぐに応じ、ノエルも「よろしく」と笑った。ミレイユは満足そうに頷く。
「それじゃあ、決まりね。ここでは五人とも名前で呼び合うこと。もちろん、式典や先生方の前では礼儀を忘れずに」
「それなら安心です」とノエルが言う。「授業中まで呼び捨てにしたら、叱られそうだから」
「私、うっかりやりそう……」
私の呟きに、また笑いが起こった。
セレスティーヌも笑っていた。さっきより少しだけ背筋の力が抜けて、目元が柔らかい。
名前を呼ぶ。それだけのことなのに、卓を挟んだ距離がひとつ縮まった気がした。
「じゃあ、記念に乾杯しない?」とフィオナ。
五つのグラスをそっと寄せる。大きな音は立てない。食堂の真ん中で騒ぎすぎないように、私たちなりの小さな乾杯だった。
「これからの学院生活に」
「そして、五人の友情に」
グラスが触れ合い、澄んだ音が鳴った。
私はその音を、きっと長く覚えているだろうと思った。
食後、フィオナが持っていた薄い冊子を広げた。王都の店や学院近くの施設が描かれた地図だった。
「新入生向けに商会が作った案内図よ。必要なら皆にもあげる」
「すごい。薬草店まで載ってる」
ノエルが目を輝かせる。
「こっちは仕立て屋。制服の補修にも使えるわ」
ミレイユが指差す。
私が真っ先に見つけたのは、もちろん武具店だった。
「この『グランツ武具店』って……」
「エレナ、顔が変わったわよ」
ミレイユが笑う。
「そんなに?」
「剣の話をするときだけ、目がきらきらするもの」
五人で笑った。セレスティーヌも、今度は肩の力を抜いて。
ノエルは笑うと、少しだけ頬にえくぼができた。フィオナは人の話を聞くとき、必ず相手の目を見る。ミレイユは皆の表情が曇りそうになると、さりげなく話題を変える。そしてセレスティーヌは、誰かの言葉を決して途中で遮らない。
会ったばかりなのに、五人の席には不思議な居心地のよさがあった。家族でも幼馴染でもない人と、こんなふうに笑い合えるなんて。私は持ってきたハンカチを膝の上でそっと握った。リリアに、友達ができたと書こう。きっと大喜びするだろう。
「明日も、ここでお昼にしない?」
私が言うと、皆がうなずいた。
平穏な学院生活というのは、きっとこういう時間のことだ。
私は胸が温かくなるのを感じた。




