第4話 入学式と第二王子
入学式の日、私は鏡の前で三度目の襟元を直していた。
窓から入る朝日は薄いカーテンを透かし、制服の紺色をやわらかく照らしていた。寮の廊下では、誰かが靴音を響かせて走り、すぐに別の誰かから注意されている。私だけが緊張しているわけではないのだと思うと、少し気が楽になった。
母は出発前に「目立たないことより、人に恥じない振る舞いをしなさい」と言っていた。父は「無理に勝とうとしなければ、たいていは平穏だ」と言った。祖父は「油断するな」、祖母は「魔力を漏らさないように」。家族の忠告を全部守ろうとすると、何だか難しい。
紺色の制服は思ったより着心地がよい。母に教わったとおり髪をまとめ、祖母に言われたとおり深呼吸する。剣は寮の部屋に置いてきた。今日は本当に普通の令嬢だ。
「よし」
講堂へ向かう途中、ルシアンとアレクシスに合流した。
「似合ってるよ、エレナ」
「ありがとう。ルシアンも格好いいね」
彼が一瞬言葉を失ったので、私は首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いや。行こう」
アレクシスが背後で妙な咳をしていた。
講堂には新入生が整然と並んでいた。
高い天井には王国の紋章が掲げられ、窓の色硝子から差す光が床に青や金の模様を落としていた。私語はささやき声に変わり、壇上へ学院長が上がると一斉に静まった。
「知を磨き、力を正し、民を守れ」――門に刻まれた言葉が、今度は学院長の声で響く。力があるだけでは足りない。どう使うかを学ばねばならない。私はその言葉を心の中で繰り返した。祖父が剣を教えるとき、最初に叩き込んだことに似ていた。学院長オルディス・ハルトマンの挨拶が始まり、学ぶ者の責任と他者を守る力について語られる。私は真面目に聞いていた。少なくとも、途中までは。
隣の列で小さな騒ぎが起こったのだ。
「セレスティーヌ。僕より先に席につくとは、ずいぶん偉くなったものだな」
銀糸を使った制服の飾りを身につけた少年が、冷たい声で言った。第二王子フェリクス殿下だと、周囲の囁きでわかった。
声をかけられた少女は、薄い金色の髪を丁寧に結い上げた、上品な令嬢だった。
「申し訳ございません、殿下。係の方に案内されまして」
「言い訳か?」
少女の肩が小さく震えた。
周囲の生徒たちは視線を落とした。誰かが止めに入る気配はない。王族に意見をすることが、どれほど重い意味を持つかは私にもわかる。けれど、案内された席に座っただけで叱られる理由は、どう考えてもわからなかった。
セレスティーヌと呼ばれた少女は、言い返さなかった。その代わり、折り畳んだ式次第の角をきゅっと握りしめていた。紙がわずかに曲がるのを見て、私は自分の拳が固くなっていることに気づく。
剣なら間合いを測れる。けれど、この場で踏み出す一歩は、私だけの問題ではない。私は息を吸い、まず彼女の表情を見た。
私は思わず立ち上がりかけた。だがルシアンが目だけで制した。ここは講堂で、相手は王子。何も知らずに口を挟めば、少女をさらに困らせるかもしれない。
代わりに私は、通路側へ少し体をずらした。少女の手から落ちかけた式次第を拾い、そっと差し出す。
「こちら、落ちましたよ」
「……ありがとうございます」
彼女の目は驚くほど澄んでいた。
フェリクス殿下は不機嫌そうに鼻を鳴らし、前の席へ向かった。講堂に静けさが戻る。
式のあと、少女が私を追いかけてきた。
「先ほどはありがとうございました。セレスティーヌ・ベルクハルトと申します」
「エレナ・リーヴェルトです。大したことはしていません」
「それでも、嬉しかったのです」
セレスティーヌさまは微笑んだが、どこか疲れて見えた。
そのとき、彼女の手元に視線が止まった。指先に、白い粉のようなものがひと粒だけ光っている。
「手に何か……」
「え?」
セレスティーヌさまは慌てて手を引いた。銀白色のきらめきは、朝露が消えるように失せた。
「失礼しました。緊張すると、たまに魔力が形になってしまうのです。危ないものではありませんから」
「形に?」
「ええ。でも、とても小さくて。お見せするほどのものでは……」
そう言って微笑む彼女の声には、どこか自分を小さくするような響きがあった。私は不思議に思った。魔力を形にするのは、簡単なことではないはずなのに。
けれど、知り合ったばかりの私が根掘り葉掘り聞くのも違うだろう。いつか、彼女自身が話したくなったときに聞けばいい。そう考えて、私はただ「きれいでした」と伝えた。
セレスティーヌさまは一度目を丸くし、それから小さく頭を下げた。
「セレスティーヌ!」
赤茶色の髪を柔らかく波打たせた令嬢が、こちらへ駆け寄ってくる。
「探したわ。式の前から大丈夫だった?」
「ミレイユ。ええ、こちらの方に助けていただいたの」
ミレイユ・ラングフォードと名乗った彼女は、セレスティーヌさまの友人らしい。二人は王子の婚約者選考の頃から知り合いだという。
「あなたがリーヴェルト様ね。ありがとう。今度、ゆっくりお話ししましょう」
ミレイユは私に明るく笑いかけた。
帰り道、私はルシアンに尋ねた。
講堂を出ると、中庭の噴水が陽光を弾いていた。新入生たちは晴れやかな顔で家族に手を振っている。さっきの出来事だけが、私の胸に小さな石のように残っていた。
ミレイユがセレスティーヌの肩に自然に手を添えていたのを思い出す。二人の間には、今日初めて会った私にはわからない時間がある。助けたいと思うだけでは足りないのだろう。何を望んでいるのか、まず本人の話を聞かなければ。
「さっき、止めてくれてありがとう。でも、何も言わないのは難しいね」
「君が怒るのはわかる。けれど、彼女自身の立場もある」
「……そうだね」
剣なら、敵と味方がわかりやすい。言葉の刃はそうはいかないらしい。
私は今日、学院で最初の難題に出会った気がした。




