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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第二部「王国の陰謀編」

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第118話 婚約者としてではなく

王宮の控え室で、セレスティーヌは自分の手袋を見つめていた。


白い布の縫い目は整っている。幼いころから、王家にふさわしい振る舞いを教えられてきた。

椅子の座り方も、挨拶の角度も、失礼のない言葉の選び方も。

だが、自分の心をどう伝えるかは、誰も教えてくれなかった。


「緊張しているか」


父ベルクハルト伯爵が隣に座る。


「はい。とても」


「私もだ」


思いがけない答えに、セレスティーヌは顔を上げた。父は少し困ったように笑った。


「王宮に呼ばれることではない。お前が何を考えていたのか、知らずにいたことが怖い」


「お父様……」


「今日は、私の顔色を見ずに話しなさい」


父は言葉を切り、窓辺の花瓶を見つめた。

セレスティーヌが幼い頃、屋敷の温室から花を摘んで渡したことがある。

父はそのときも「ありがとう」と言いながら、すぐ仕事に戻ってしまった。


王宮へ向かう馬車の中で、セレスティーヌは窓の外を流れる街並みを見つめていた。

石畳を踏む車輪の音が、一定の間隔で座席に伝わってくる。

向かいの父は書類を閉じ、娘の顔を見た。


「話す内容は、もう決めているか」


「はい。ただ……お父様に聞いていただくのと、王太子殿下に申し上げるのとでは、きっと違います」


「違って当然だ。相手が変われば、緊張も変わる」


父は少し言葉を探した。


「私も、お前が幼い頃から婚約の話を当然のものとして扱ってきた。そこは謝らなければならない」


「お父様……」


「今日、何を言うべきか私が決めてやることはできる。だが、それではまた同じことになる」


セレスティーヌは膝の上で手を重ねた。父の声が、今までより近く聞こえた。


面談室には、柔らかな日差しが落ちていた。



面談室の外では、アルベルトが警護の配置を通常どおりに整えていた。

誰かを威圧するための増員はしない。

ユリウスも、本人の発言と周囲の証言を混同しないよう記録様式を確認した。


クラウスは二人に、セレスティーヌの意思を最優先に扱うよう念を押している。

クラウスは形式的な挨拶を終えると、書記に記録の準備を命じた。


「急がずに話してください。分からないことは、分からないと言って構いません」


セレスティーヌは深く一礼した。喉が乾いている。準備した言葉をすべて覚えているか、自信がなかった。


「わたくしは、長い間、婚約者としてふさわしくあることを考えてまいりました」


一度、息を吸う。


「けれど、その間に、わたくし自身がどう生きたいのかを、考えないようにしていたのだと思います」


クラウスは遮らずに聞いていた。父も、何も付け足さない。その沈黙が、彼女の次の言葉を待っている。


「フェリクス殿下のお立場を軽んじるつもりはありません。ですが、互いの意思を確かめないまま、この先も婚約を続けることには不安があります」


言い終えた途端、肩の力が抜けた。誰かの失敗を列挙するより、自分の望みを話す方がずっと怖かった。


クラウスが静かに尋ねた。


「今すぐ結論を求めますか。それとも、まず話し合いの場を求めますか」


「……わたくしの意思が、正式に扱われることを望みます。そのうえで、婚約を見直していただきたいのです」


書記のペンが紙を走る音がした。

セレスティーヌはその音を聞きながら、ようやく、自分の言葉がここに残るのだと実感した。


「お前が小さかった頃は、何を考えているか分かっているつもりだった」


「わたくしも、お父様に褒めていただければ、それで十分だと思っていました」


「今は?」


「……褒めていただきたい気持ちはあります。でも、同意していただけなくても、聞いてほしいのです」


父は長い間黙っていた。廊下を歩く衛兵の足音が、厚い扉の向こうで規則正しく響く。


「そうか」


短い返事だったが、いつもの命令とは違って聞こえた。



婚約者という肩書きを離れて話した日のあと、学院では小規模な護衛演習が行われた。

護衛対象が自分で出口を選ぶ演習を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。


「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」


「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」


ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。

自分の判断で動く訓練をセレスティーヌが望む。エレナも頷く。

目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。


笛が鳴る。エレナが選ばれた出口の前を守り、ルシアンが風で反対側の敵役を遠ざける。

木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。

訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。


「私、一歩だけ遅かった?」


「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」


「じゃあ、次も同じようにする!」


「状況が同じならね」


ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。

セレスティーヌが「こちらへ」と自分の声で指示する。

勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。



セレスティーヌは手袋の上から指を握りしめた。

これから話すことが父を困らせると分かっている。それでも、父に娘の本当の気持ちを知ってもらいたかった。


扉が開き、クラウスが姿を現した。

面談には必要な記録係だけが同席し、フェリクスとは別々に話を聞くことになっていた。


「セレスティーヌ嬢。ここでは、あなた自身の意思を聞きたい」


彼女は膝の上で拳を握り、ゆっくり開いた。


「わたくしは、婚約者として務めを果たそうとしてまいりました。ですが、そのために自分の気持ちを口にしないことが、正しいと思い込んでいました」


クラウスは遮らずに聞いている。


「フェリクス殿下に、わたくしの意見を聞いていただきたいのです。人前で軽んじられることなく、対等にお話ししたい。それが叶わないのであれば……婚約を続けることは、望みません」


言い終えた途端、胸の鼓動が耳の奥で響いた。もう取り消せない。けれど、不思議と後悔はなかった。


クラウスは静かに頷く。


「あなたの言葉は記録する。ただし、王家の婚約は複数の手続きが必要だ。今日ここで結論を出すことはできない」


「承知しております」


「それでも、あなたの意思を聞けたことは大きい」


クラウスは記録係に一度だけ目配せし、筆を止めさせた。


「確認しておきたい。あなたが求めるのは、ただ婚約を解消することだけではないのだね」


セレスティーヌは考えた。

すぐに答えを返したくなったが、ここで急げばまた、自分の言葉を誰かの望む形に整えてしまう。


「わたくしは、これからの人生を自分の意思で選びたいのです。そのために、今の婚約についても考えていただきたいと思っています」


クラウスはゆっくり頷いた。


「分かった。弟にも同じように、本人の言葉で話してもらう。あなたの発言は、誰かを罰するための材料としてではなく、婚約を検討するための意思として扱う」


セレスティーヌの胸の奥がわずかに緩んだ。正しい答えを言えたかは分からない。それでも、自分の声が記録される。その事実が彼女を支えた。


面談が終わり、回廊へ出ると、父が足を止めた。


「よく話したな」


「お父様は……失望なさいましたか」


「いいや。私が先に尋ねるべきだった」


セレスティーヌは視界が滲むのを感じ、慌てて瞬きをした。


学院へ戻る馬車の窓から、冬の光が差し込む。

門の前では五人が待っていた。

エレナが手を振り、ミレイユがその袖を引いて落ち着かせる。ノエルは温かい飲み物を用意していた。


「どうだった?」とフィオナ。


「……伝えられたわ。全部ではないけれど、大切なことは」


アレクシスは少し離れて立っていた。セレスティーヌは彼にも頭を下げる。


「練習のとき、聞いてくださってありがとうございました」


「僕は聞いただけだよ。話したのは君だ」


その言葉が、今の彼女には何より嬉しかった。


婚約の行方はまだ決まらない。

それでも今日、セレスティーヌは初めて、婚約者という肩書きの外にいる自分の声を聞いた。


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