第117話 消印のない控え
王宮の文書庫は、冬の空気をそのまま閉じ込めたように冷えていた。
クラウスは管理官の前に、二通の写しを並べた。
どちらも学院へ物資を移送する際の通知で、日付も宛先も同じ。
だが、一方には通常の受領印がなく、もう一方には差出部署の控え番号が欠けていた。
「これは、どちらが正式な文書だ?」
管理官は額に汗を浮かべる。「確認には時間が必要です」
「時間は与える。推測で埋めないことだ」
クラウスは紙の端を指で押さえた。誰かが不正を働いた可能性はある。
だが、手続きの欠陥が偶然重なっただけかもしれない。
いずれにせよ、学院の生徒を証拠代わりに使うつもりはなかった。
管理官が退出した後、クラウスは机の上の二通を入れ替えてみた。
紙質も書式も似ている。
しかし、似ているからこそ、誰かが気づかなかった小さな違いが気にかかった。
「通常なら、差出部署で控えを残してから送るはずだな」
「はい。受領側も、日付と担当者を記します」
「では、どちらも欠けていることを理由に、今ここで偽物と決めるのは危険だ」
側近は頷いた。「過去の同形式の通知と比較いたします」
ユリウスは宰相府の保存年限を確認し、閲覧記録を残したうえで古い控えを取り寄せた。
「殿下、筆跡の違いだけではなく、誰がいつ写しを作ったかも追います」
「頼む。誰かを疑うためではなく、記録を正しく読むために」
学院でヴィクトルに世話を焼いていたころ、ユリウスはよく『一人で抱え込まないでください』と小言を言った。
今もその癖は変わらないが、王太子に対しては職務の範囲を守っていた。
資料室の机には、同じ形式の控えが三枚並んでいた。
ルシアンは欄の位置を指で追い、フィオナが日付を読み上げる。
紙はどれも古びていたが、折り目のつき方が違う。
「ここ、受領者の印はあるのに、発送した側の確認欄が空白だね」
「空白だから不正、とは言えないよ」とルシアン。「写しを作った時点で省略された可能性もある」
エレナは眉を寄せた。「じゃあ、何を見ればいいの?」
「別の控えと照合する。僕らが推測を重ねるより、保管している人に確認してもらう方が確かだ」
フィオナは頷いた。
「商会の帳簿でも、同じ数字が二か所に残るようにするの。どちらか一方だけでは、間違いに気づけないから」
その説明を聞き、エレナは剣の稽古を思い浮かべた。自分では真っ直ぐ振ったつもりでも、ガルド教官に見てもらうと、肩が上がっていることがある。記録にも、外から見てもらう仕組みが必要なのだ。
「でもさ、誰かがわざと消したんだったら?」
「それを決めるのは調査する人だよ。僕らは、見つけた違いを正確に渡す」
ルシアンの声には、いつもの穏やかさの奥に硬さがあった。
エレナは彼の横顔を見た。正しい方法を選ぶのは、彼だって怖いのかもしれない。
作業の後、セレスティーヌはノートに三本の線を引いた。
確認できたこと、まだ分からないこと、誰に確認するか。細い線で区切るだけで、胸の中の不安も少し整理される。
「私の婚約も、同じように分けられるのかしら」
「全部は無理だと思う」とノエル。「気持ちは帳簿みたいに整理できないから」
「そうね。でも、何を知らないのかは分かる気がする」
夕方、資料室の鍵を返す際、エレナは職員に礼を言った。
何度も確認する面倒な仕事を引き受けてくれる人がいる。
誰かの正しさは、剣の一振りほど目立たない場所でも守られている。
クラウスは息を吐いた。人は急いで答えを出したくなる。
特に、弟の名が関わるときは。しかし、正しいと思い込んだ結論で誰かを傷つければ、調査の名を借りた別の不正になる。
「担当者の記憶だけに頼らず、保管台帳と照合するように」
彼はそう命じ、文書庫の重い扉が閉まる音を聞いた。
その日、フィオナは商会から届いた一般向けの配送案内を眺めていた。
「変だな。王都の倉庫が混んでいるって話なのに、こっちの便は遅れていない」
「別の荷物なんじゃない?」とエレナ。
「そう。だから、同じものとして考えちゃだめ。でも、記録の付け方は参考になるかも」
消印のない控えが見つかったころ、七人は学院の訓練場に集まった。
紙束を置いた机と模擬敵を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。記録を傷つけずに危険を避ける稽古。
それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。
エレナが机を背にせず木剣を受け、ルシアンが風で紙束を押さえる。
風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。
敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。
フィオナが「書類を守るのも立派な護衛ね」と笑う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
ミレイユが身を乗り出す。「商会では、受け取りの印が欠けていたらどうするの?」
「荷を動かさず、送り手と受け手の両方に確認する。片方の言い分だけでは決めないよ」
セレスティーヌはその言葉を覚えておこうと思った。人の関係にも、同じことが言えるのではないか。
フィオナは帳面の余白に小さな図を描いた。送り手、運び手、受け手を三つの丸で示し、その間を線でつなぐ。
「どこか一つで印が抜けたら、次の人が困る。だから、私たちは確認する場所を決めているの」
「なるほど。剣の受け渡しでも似たことがあるかも」とエレナ。
「剣?」
「誰が手入れしたか分からないまま使うのは怖いでしょ」
ルシアンが頷いた。
「記録は責任を押しつけるためだけじゃなく、次に使う人を守るためでもあるね」
セレスティーヌは図を見つめた。
自分の婚約も、誰かが決め、誰かが承認し、いつの間にか当然のものになっていた。
だが、その間に本人の気持ちを確かめる欄はあったのだろうか。
「記録があっても、聞き忘れたことは残らないのね」
フィオナはペンを置いた。「だからこそ、今から聞けばいいんだと思う」
放課後、クラウスから学院長へ照会が届いた。
追加の証言を求めるものではなく、学院の書類保管手順についての一般的な質問だった。
ルシアンは掲示された連絡を読み、ほっと息を吐いた。
「これなら、誰か一人に負担が集中しない」
「前みたいに、私たちで走り回らなくていいんだね」とエレナ。
「うん。……走り回りたい顔をしてるけど」
「してないよ!」
アレクシスが笑い、セレスティーヌもつられて笑った。
一方、侯爵邸に届いた報告は別の色を帯びていた。
ハインリヒは文書庫の照合が続いていると知り、眉を寄せる。
「控え番号まで調べるとは」
側近が問う。「対処なさいますか」
「何もするな。今動けば、誰が気にしているか教えるようなものだ」
ハインリヒは机上の封筒を引き出しへしまった。
その封蝋には、王国で一般的に使われるものとは異なる細い文様が刻まれていた。
まだ誰も、その文様の意味を知らない。
学院の夜は静かだった。
けれど、見えない場所で、二つの国の思惑が少しずつ近づき始めていた。




