第116話 礼儀の仮面が揺れるとき
王宮での面談を控えた週、学院では小さな茶会が開かれた。
上級生の主催する礼法の実習で、参加者には席次の確認と客人の案内が任される。セレスティーヌも係に選ばれた。人前で動くのは慣れているはずなのに、指先が冷たかった。
「失敗したら、また噂になるかしら」
「失敗しなくても噂はする人がいるわ」とミレイユ。「だから、するべきことをしましょう」
茶会の準備は、思っていた以上に細かな仕事の連続だった。銀の匙の向き、花瓶の位置、椅子を引く順番。セレスティーヌは覚えている手順を一つずつ確かめる。
「席札、こちらの列は合っている?」とミレイユ。
「ええ。上級生の方から順に、招待状の記載と照合したわ」
「なら大丈夫。あなたはちゃんと準備してきた」
「それでも、誰かに見られると思うと……」
「見られるための礼法だけど、見世物になるための礼法じゃないわ」
その言葉に、セレスティーヌは肩の力を少し抜いた。礼儀とは相手を尊重するためのものだ。誰かを小さく見せるための道具にしてはいけない。
茶会の準備が始まると、温室に隣接した広間は慌ただしくなった。銀器を磨く音、椅子を引く音、湯を沸かすかすかな音。セレスティーヌは一つひとつを確かめながら、盆に載せた席札を運んだ。
「緊張している?」
ミレイユが隣に来る。
「ええ。間違えないようにと思うほど、指が固くなるの」
「私も最初の社交会では、手袋を裏返しに持っていたわ」
「ミレイユが?」
「誰にも見せなかっただけ。失敗しない人に見られるのも、なかなか大変なのよ」
セレスティーヌは少し笑った。完璧に見える友人にも、知らない失敗がある。
席札を並べ終えた頃、イザベラが数人の令嬢を伴って入ってきた。
彼女の視線は真っ先にセレスティーヌの手元へ向かう。
「ずいぶん熱心ですのね。王子殿下の婚約者が、給仕のようなお仕事まで」
以前なら、セレスティーヌは謝って手を引いただろう。今日は、盆を静かに台へ置いた。
「本日は上級生の茶会をお手伝いしています。役割を分担しているのです」
「それがふさわしいとお思い?」
「招かれた方が気持ちよく過ごせるようにすることは、恥ずかしいことではないと思います」
声は少し震えた。それでも最後まで言えた。イザベラの背後で、令嬢の一人が困ったように視線を落とす。
「……お好きになさいませ」
イザベラは扇を閉じた。セレスティーヌは胸の鼓動を隠すように、席札の向きを確かめた。
やがて盆を持ち替える際、彼女は一枚の札をずらしてしまう。
気づいた瞬間、喉が詰まった。ここで黙って直せば、誰にも知られないかもしれない。
しかし、主催の上級生が確認に来る前に、セレスティーヌは声をかけた。
「申し訳ありません。席札の配置を一枚、誤りました。正しい順序を確認させてください」
謝罪を口にすることと、自分を否定することは違う。その小さな違いを、彼女はようやく理解し始めていた。
窓から差す淡い陽光が、磨かれた茶器に細い光を落としている。セレスティーヌはその光を見つめ、胸の中で最初の挨拶を繰り返した。
茶会が始まって間もなく、イザベラが近づいてきた。
「ベルクハルト様。近ごろ王宮へお手紙を出されたそうですわね」
声は柔らかい。だが、近くの生徒たちがこちらを見るよう、わずかに音量を上げている。
セレスティーヌは息を整えた。
「私的な書簡については、お答えを控えます」
「まあ。婚約者のお立場なら、もう少し説明なさるべきでは?」
以前なら謝っただろう。今は違う。
――礼儀の仮面が揺れた日の夕方。
学院の訓練場では、席札に見立てた目印のある演習場が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。失敗した立ち位置を責めず、次の動きを考える。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。エレナが札を踏まずに敵役の木剣を弾き、ルシアンが風で落ちた札を端へ寄せる。
木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。
三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。
セレスティーヌが「間違えたら直せばいい」と自分に言い聞かせる。
勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
「茶会の進行に関わるご質問でしたら、お受けします。お席はこちらです」
イザベラの笑みが一瞬だけ薄くなる。
「ずいぶん強くなられたのね」
「必要なことを申し上げただけです」
その場は収まった。
しかし、セレスティーヌは給仕台の陰で息を吐いた。
手が震えている。正しいことを言ったからといって、怖さが消えるわけではない。
「大丈夫?」
エレナがそっと声をかける。
「ええ。……少し、強がってしまったかもしれないわ」
「強がりでも、ちゃんと立ってたよ」
その言葉にセレスティーヌは微笑んだが、直後に自分の案内した席札が一枚ずれていることに気づいた。急いで直そうとして、茶器の載った盆に肘を触れてしまう。
「危ない!」
エレナが盆を支え、ミレイユが茶器を押さえた。大きな音はしなかったが、周囲の視線が集まる。
「申し訳ありません。わたくしの不注意です」
セレスティーヌは自分の失敗を認め、主催者に報告した。
隠そうとしなかったことで、かえって実習は滞りなく続いた。
主催の上級生は報告を聞き終えると、乱れた席札を元に戻してから言った。
「誰にでも失敗はあるわ。大切なのは、そのあとどうするかよ」
「申し訳ございませんでした」
「あなたは隠さずに知らせた。それで十分。次は盆の位置も確認してね」
「はい」
セレスティーヌは深く頭を下げた。
責められなかったことに驚く自分が、少し悲しい。失敗を認めれば、必ず価値が下がると思っていたのだ。
廊下へ出ると、エレナが両手を大きく広げた。
「ほら、終わった! しかも茶器は無事!」
「それを喜ぶのはどうなのかしら」とミレイユ。
「でも、怪我した人もいないよ」とノエル。
セレスティーヌは皆の顔を見回し、声を立てて笑った。
今日の自分は完璧ではなかった。それでも、誰かと笑って帰れる。
茶会のあと、イザベラは廊下で一人立ち止まった。
セレスティーヌが謝罪ではなく説明を選んだことが、どうしても気に入らない。
だが、あの場で自分の方が無作法だったことも理解していた。
「……変わってしまったのね」
それは相手への言葉であると同時に、思いどおりにならない状況への苛立ちだった。
夜、セレスティーヌは失敗した席札の位置をノートに書き留めた。
「完璧でなくても、明日は来るのね」
ノエルが笑う。「だから、明日直せばいいんだよ」
窓の外に、冷たい月が浮かんでいた。




