第115話 伯爵家からの返事
ベルクハルト伯爵からの返書は、三日後の朝に届いた。
封筒の角はきっちり揃い、父らしい端正な字が並んでいた。
セレスティーヌは寮の窓辺で封を切る。読み進めるうち、胸の奥が少しずつ固くなった。
『王家との婚約は、家の名誉に関わる重大事である』
予想していた言葉だった。それでも、紙の上で見ると痛い。
だが、次の行で筆跡がわずかに乱れていた。
『お前が何を受け、何を望んでいるのか、父は十分に聞いてこなかった。面談では私も同席する。だが、まずお前自身の口から聞きたい』
セレスティーヌは何度も読み返した。すべてを認めてくれたわけではない。それでも、父が聞くと言ってくれた。
返書を胸に抱いたまま、セレスティーヌは何度か部屋を往復した。父の言葉を信じたい。けれど、面談で実際に口を開けば、これまでのように「家のために」と諭されるのではないか。
彼女は鏡の前に立った。そこには、王子の婚約者として整えた髪と襟元が映っている。
「お父様に、何から話せばいいのかしら」
問いかけても鏡は答えない。代わりに、昨夜書いた便箋が机の上で白く光っていた。
返書を受け取った朝、セレスティーヌは封を切るまでに長い時間を要した。伯爵家の紋章は見慣れている。それでも、今日の封筒だけは別の重さを持っているようだった。
父の筆跡は、いつもどおり端正だった。書き出しには体調を気遣う言葉があり、続いて、彼女が記した希望を軽んじずに扱うと書かれていた。婚約の結論を約束する文面ではない。それでも、娘の言葉を正式なものとして受け取ったことが伝わってくる。
セレスティーヌは手紙を胸に押し当てた。嬉しい。けれど、嬉しいと思うほど、これまで父に何も言わずにきた自分が惜しくなる。
食堂でエレナが向かいに座ると、セレスティーヌは手紙の内容を一言ずつ説明した。自分の言葉を、まだ確かめるように。
「お父様が、話を聞いてくださるって」
「よかった!」
エレナは勢いよく身を乗り出し、危うく牛乳の器を倒しかけた。ルシアンがそっと器を引き寄せる。
「喜ぶのはいいけど、机の上は守ろうね」
「今のは倒してないもん」
「僕が動かしたからね」
ミレイユが呆れた顔をし、セレスティーヌは思わず笑った。父の返事を受け取ってから初めて、胸いっぱいに息を吸えた気がした。
午後、彼女は図書室で古い礼法書を開いた。婚約に関する記述は形式と手続きが中心で、当事者の気持ちについてはわずかしか書かれていない。
「ここには、話し合う順序が書いてあるのね」
隣にいたフィオナが覗き込む。
「商談と似てる。順序は大事。でも、何のために話し合うかを忘れたら、書類だけ整っても意味がないよ」
「わたくし、今まで書類の中の人間になろうとしていたのかもしれないわ」
「だったら、書類の外にいる自分も連れていけばいいんじゃない?」
簡単に言われて、セレスティーヌは目を丸くした。フィオナは照れたように肩をすくめる。
「ごめん。商会の言い方になっちゃった」
「いいえ。とても分かりやすかった」
セレスティーヌは父への返事に、もう一文加えることにした。面談の場では、彼女自身の言葉を最後まで聞いてほしい、と。
『今のままでは、続けたくありません』
自分で書いたその一文を読み返し、彼女はそっと指を重ねた。怖さは残っている。それでも、父が聞くと約束してくれたことまで疑ってしまえば、何も始められない。
「まず、ありがとうと伝えましょう」
セレスティーヌは便箋を折り、食堂へ向かった。
昼食の席で手紙のことを話すと、エレナが真っ先に顔を輝かせた。
伯爵家からの返事を受けた午後、訓練場の片隅で盾と木剣を組み合わせた小さな試合を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。応援されることに慣れないセレスティーヌの気分転換。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。アレクシスが《金剛》の盾を固め、エレナが側面から剣を当て、ルシアンが風で間合いを調整する。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。アレクシスが「一人で耐えるより、交代できる方がいい」と言う。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
「よかった!」
「まだ何も決まっていないわ」
「うん。でも、話を聞いてくれるって大きいよ」
ミレイユは頷いた。「お父様だって、今まで知らなかったことがあるのでしょう」
「わたくしも、伝えてこなかったもの」
「伝えられない雰囲気だったのかもしれないよ」とノエルが言う。
セレスティーヌはその言葉に救われた気がした。自分だけを責めなくてもいいのかもしれない。
食堂ではフィオナが、届いた手紙の封を開ける手つきを見て笑った。
「セレスティーヌ、何度も読み返したでしょう」
「ええ。折り目がついてしまったわ」
「いいじゃない。大事な手紙なんだもの」
ミレイユは温かいスープを彼女の前へ寄せる。
「でも、今日はきちんと食べること。話し合いには体力がいるわ」
「そうそう」とエレナ。「お腹がすくと、言いたいことよりお菓子のことを考えちゃうし」
「それはエレナだけ」とノエルが言う。
セレスティーヌは笑いながら匙を取った。皆は父の返事を過度に喜ばない。期待を押しつけず、心配を一緒に持ってくれる。その自然さがありがたかった。
一方、王宮ではフェリクスが兄からの呼び出し状を受け取っていた。
「なぜ私が、婚約者の機嫌について説明しなければならない?」
側近は目を伏せる。「殿下、王太子殿下は婚約者としてのご対応を確認したいと」
「大げさだ。セレスティーヌが友人に吹き込まれたのだろう」
その言葉を口にした瞬間、フェリクスは自分が彼女と最後に落ち着いて話した日を思い出せないことに気づいた。
気づいたこと自体が腹立たしく、呼び出し状を机に置く。
午後の廊下で、セレスティーヌはアレクシスとすれ違った。
「顔色が少し明るいね」
「父から返事が来たのです。まだ不安はありますけれど」
「不安があるままでも、進めるんだね」
「はい。……わたくし、ずっと誰かが正しい答えをくださるのを待っていました。でも、答えを決めるのは自分なのですね」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。「そう思うよ」
その日の夕方、セレスティーヌは父への返書を書いた。感謝の言葉の後に、自分が望む面談の進め方を短く記す。
もう、謝罪だけで便箋を埋めることはなかった。




