第114話 自分の願いを記す夜
セレスティーヌは机に白い便箋を置いたまま、しばらく筆を持てずにいた。
父への手紙なら、これまでも何度も書いてきた。
学院の成績、季節の挨拶、婚約者として失礼のない近況。
けれど今夜書こうとしているのは、そのどれでもない。
「わたくしは、どうしたいのか」
声にすると、言葉は思いのほか重かった。
隣の椅子に座るミレイユが、温かいお茶を差し出す。
「きれいな文章にしようとしなくていいのよ」
「伯爵家の娘が王家へ差し出す言葉なのに?」
「だからこそ、あなたの言葉でなくちゃ」
セレスティーヌは筆を走らせた。『婚約者として至らなかった点を反省し――』。そこで手を止め、紙を裏返す。
「また謝ってしまったわ」
「何に対して?」
寮の机に置いた便箋は、三枚目になっていた。一枚目には謝罪ばかりが並び、二枚目には事情の説明が長々と続いている。どちらも、セレスティーヌが本当に伝えたいことには辿り着かなかった。
「お父様は、どう受け取るかしら」
独り言を口にすると、静かな部屋では思った以上に大きく聞こえた。窓の外では、寮の灯りが一つずつ消えていく。
彼女は幼い頃のことを思い出した。婚約が決まった日の晩餐。大人たちが祝福の言葉を交わす中、自分は新しいドレスの裾を握り、微笑む練習をしていた。誰かが「嬉しいでしょう」と尋ねたので、「はい」と答えた。あの返事が、何年ものあいだ、自分の本心の代わりになってしまった。
戸を軽く叩く音がした。ノエルが湯気の立つカップを持って立っている。
「灯りがついていたから。邪魔だった?」
「いいえ。ちょうど、言葉が見つからなくて」
ノエルは机の紙を読もうとせず、窓際の椅子に腰を下ろした。
「私、薬草の記録を書くとき、最初に『観察したこと』と『そう思ったこと』を分けるの」
「どうして?」
「思い込みを、事実だと思わないため。例えば、葉がしおれていたのは事実。でも、水が足りないと思ったのは推測。寒さのせいかもしれないでしょう」
セレスティーヌはペンを取った。
「では、フェリクス殿下がわたくしの言葉を遮ったことは、事実。わたくしが価値のない人間だからだと思ったのは……」
「それは、あなたが傷ついたときに考えてしまったこと」
言い終える前に、セレスティーヌの目が熱くなった。誰かを責めたいのではない。自分が自分に向けてきた厳しい言葉を、ようやく疑えるようになったのだ。
「わたくし、ずっと自分が我慢すればいいと思っていたの」
「うん」
「でも、それでは、何が嫌だったのかさえ分からなくなってしまう」
ノエルは頷くだけだった。その静けさがありがたかった。
やがてセレスティーヌは、紙の上に三つの短い文を書いた。今まで起きたこと。今感じていること。これから望むこと。完璧な文章ではないが、誰かの顔色をうかがって消した言葉ではなかった。
「……分からないの」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
ミレイユが帰った後、セレスティーヌは一人で窓を開けた。冷たい風が便箋の端を揺らし、書きかけの謝罪の文が目に入る。
幼い頃、父に褒められたのは、来客の前で静かに微笑んだ日だった。婚約が決まってからは、教師たちが一層熱心に礼法を教えた。間違えなければ叱られない。余計なことを言わなければ波風は立たない。それは確かに、彼女を守ってきた。
けれど、フェリクスに遠ざけられた席で、何も言えずにいた自分は本当に守られていたのだろうか。
「正しく振る舞うことと、何も感じないことは違うのね」
声に出すと、胸が痛んだ。怒っていたことも、悲しかったことも、彼女は自分に認めてこなかった。
セレスティーヌは紙を折り畳まず、引き出しにしまった。消してしまいたい言葉も、今の自分を知るためには必要なのかもしれない。
自分の願いを手紙に書く夜の前、学院では小規模な護衛演習が行われた。
短い距離の模擬護衛を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。気持ちを言葉にする前に体を動かしたいセレスティーヌに付き合う。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが敵役の木剣を止め、ルシアンが風で後方の出口を示す。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。セレスティーヌが「守ってほしい時は、そう言っていいのですね」と呟く。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
翌日の昼休み、五人は人の少ない中庭に集まった。ノエルは質問を三つだけ用意していた。
「フェリクス殿下と、これからも婚約を続けたい?」
セレスティーヌは目を伏せる。答えを口にするまで、長い沈黙があった。
「今のままでは、続けたくありません」
風が落ち葉を転がした。誰もその答えを急かさなかった。
「では、何が変われば続けられると思う?」
「わたくしの意見を聞いてくださること。人前で侮辱しないこと。それから……わたくしを、誰かと競わせないこと」
フィオナが頷く。「条件がはっきりしたね」
「でも、そんなことを求めるのはわがままかしら」
「違うよ」とエレナ。「一緒に歩く人に、置いていかないでって言うのは、わがままじゃない」
セレスティーヌの胸に、熱いものが広がった。
中庭から戻る道すがら、エレナがセレスティーヌの横に並んだ。落ち葉を踏む音が二人の足元で重なる。
「私、セレスティーヌがあんなふうに答えたの、嬉しかった」
「ありがとう。でも、あの言葉を父に伝えるのは怖いわ」
「うん。怖いよね」
エレナがあまりに素直に頷くので、セレスティーヌは意外そうに瞬いた。
「エレナでも怖いことがあるの?」
「あるよ。大切な人が傷ついてるのに、何をしたらいいか分からないときとか。剣なら練習すれば少しは上達するけど、言葉はそう簡単じゃないもん」
「……わたくしも、剣の稽古をしているみたいね」
「だったら、失敗してももう一回だよ」
二人は顔を見合わせた。遠くの訓練場から木剣のぶつかる乾いた音が聞こえる。セレスティーヌはその音を、今までより少し身近に感じた。
夕方、アレクシスは訓練場の片隅で、彼女が小さな《聖晶》を作るのを見守った。銀白の結晶は掌の前に薄く広がり、五秒ほどで淡く消えた。
「今日は安定していたね」
「ええ。でも、長くは保てません」
「五秒あれば守れるものもある。前に君が教えてくれたことだよ」
「わたくしが?」
「言葉ではなくて、行動で」
彼女は照れたように笑った。アレクシスはそれ以上踏み込まない。
婚約者のいる彼女に、個人的な願いを重ねてはいけないと分かっていた。
夜、セレスティーヌは新しい便箋を取り出した。
『わたくしは、今の婚約のあり方を、このまま受け入れることができません』
今度は消さなかった。
自分の願いを初めて文字にしたその一行が、部屋の灯りの下で静かに光って見えた。




