第113話 封じられた記録と新しい招待
学院の温室では、冬支度のために植木鉢が少しずつ室内へ移されていた。
エレナが鉢を抱え上げると、ノエルが慌てて手を振った。
「それ、根が弱ってるから揺らさないで」
「えっ、こんなに軽いのに?」
「重さの問題じゃないよ」
エレナはそっと鉢を置いた。強い力があっても、扱い方を間違えれば守れないものがある。最近、似たようなことを何度も教わっている。
セレスティーヌは窓辺で小さな苗の葉を整えていた。以前なら、汚れた手袋を人に見られることすら気にしただろう。今は、土のついた指先を見て微笑んでいる。
「この苗、春には花が咲くのかしら」
「世話を続ければ」とノエル。「でも、急いで引っ張ったらだめ」
「……そうね。急いで咲かせようとしても、きっと傷つけるわ」
温室の奥では、フィオナが布袋から小さな木札を取り出していた。鉢ごとの水やりの回数を記したものだという。
招待状の封蝋は王宮の正式な印章だった。セレスティーヌは開封する前に、差出人と日付を二度確認した。紙の縁に触れる指先が、かすかに震えている。
「読まなくてもいい時間を、少し取ろうか」
ミレイユが言った。
「……いいえ。読むわ。今、読まなかったら、夜までずっと封筒のことを考えてしまうもの」
招待という言葉は柔らかい。けれど、指定された場所と日時は王宮の面談室で、同席者については後日通知とある。誰が来るのか分からないことが、セレスティーヌには何より恐ろしかった。
「お父様にもお伝えしなければ」
「先に文面を写しておこう」とルシアン。「学院に届いたものと、伯爵家へ送るものが同じ内容だと分かるように」
フィオナが便箋を取り出す。「私、日付の書き間違いを見つけるのは得意だよ。商会で何度も怒られたから」
「それ、得意になった理由が悲しいね」とエレナ。
皆の笑い声は小さかったが、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
夕方、温室ではガラスの内側が薄く曇っていた。ノエルが鉢の土を指で確かめ、今日は水を足さなくていいと告げる。
「毎日何かしてあげればいいわけじゃないんだね」
エレナが言うと、ノエルは頷いた。
「根が息をする時間も必要なの。心配だからって水をあげすぎると、かえって弱ることがある」
セレスティーヌはその話を聞きながら、自分を気遣う友人たちのことを考えた。誰も面談で言うべき言葉を押しつけない。聞けば助言してくれるが、最後の答えは自分に預けてくれる。
「もし、王宮で何も言えなくなったら……」
言いかけると、ミレイユが剪定ばさみを置いた。
「沈黙してしまったら、少し時間をいただきたいとお願いすればいいのよ。急いで答えることが礼儀とは限らないわ」
「それでも、怖いわ」
「怖いままでいい」とエレナ。「私も初めて大勢の前で剣を振ったとき、足が変な感じだった」
「あなたにもそんな日が?」
「あるよ。おじい様に『剣を握る前に息をしろ』って言われた」
セレスティーヌは深く息を吸った。温室の土と若い葉の匂いが胸に満ちる。面談の部屋でこの匂いを思い出せたら、少しは落ち着けるだろうか。
「商会の倉庫でも似た札を使うんだ。荷物の数だけじゃなく、最後に誰が確かめたかを残すの」
「植物と荷物が同じなの?」とエレナ。
「同じじゃないよ。でも、忘れないための工夫は似てる」
ミレイユは木札の端に細い紐を通した。「見た目が地味だからって、必要ないわけじゃないのよね」
セレスティーヌはその会話を聞きながら、苗の根元へ水を注いだ。少し多く傾けそうになり、慌てて手を止める。
「私、ずっと正しい量を誰かに教えてもらわないと、何もできないと思っていたわ」
「初めは教わればいいよ」とノエル。「でも、土が乾いているかどうかは、自分で触って確かめられる」
セレスティーヌは土に指を添えた。冷たく、わずかに湿っている。誰かの許可を待たなくても、自分で分かることがある。その発見は小さくても、彼女には新鮮だった。
その午後、セレスティーヌのもとに王宮の封蝋が押された手紙が届いた。差出人は王太子クラウスの執務室。父ベルクハルト伯爵を通じ、近く正式な面談の場を設けたいという内容だった。
新しい招待状を受け取ったあと、七人は学院の訓練場に集まった。式典の控室を模した衝立の迷路を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。緊張したときでも身の回りを見渡せるようにする。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが衝立の陰から出る木剣を止め、ルシアンが風で足元の布を浮かせて危険を示す。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。セレスティーヌが「怖くても、確認する順番は忘れません」と言う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
手紙を読んだ彼女の指が止まる。
「どうしたの?」とミレイユ。
「王宮から……わたくしの話を聞いてくださるそうよ」
嬉しさより先に、冷たい不安が胸に落ちた。王宮の広い部屋で、また自分の言葉が届かなかったら。フェリクスが先に何かを言っていたら。
「一人で行くの?」とフィオナ。
「父が同席する予定よ。けれど、話すのはわたくし自身」
アレクシスは少し離れた場所でその言葉を聞いていた。彼女の前に出ることは簡単だ。だが、今必要なのは自分の強さではない。
「練習相手なら、僕にもできる」とだけ言った。
セレスティーヌは顔を上げる。「ありがとうございます。でも、最初は五人に聞いてもらいたいのです」
「うん。それがいい」
その返事に迷いはなかった。
王宮からの封書を机に置いた後、セレスティーヌは一度だけ深呼吸した。封蝋の印はいつも見慣れているはずなのに、今日のものは妙に重く感じられる。
「もし、うまく話せなかったら……」
「そのために練習するんでしょう」とミレイユ。
「でも、言葉を整えすぎると、本当の気持ちがなくなってしまいそう」
フィオナは考え込んでから、商談で使う小さな帳面を開いた。
「じゃあ、先に言いたいことを三つだけ書こうよ。順番はあとで考える」
「三つ?」
「多すぎると、相手の顔を見た途端に忘れちゃうから」
「それは私の得意分野だね!」とエレナが胸を張る。
「得意にならなくていいよ」とルシアンが返すと、皆が吹き出した。
笑いの中で、セレスティーヌは小さく頷いた。王宮へ向かう道は一人で歩くとしても、言葉を探す時間まで一人で抱え込む必要はない。
同じころ、ヴァイスベルク侯爵邸ではハインリヒが封じられた移送記録の報告を受けていた。
「学院側の証言は、もう取り下げさせられないのか」
「正式に保全されました」
ハインリヒはしばらく黙り、机上の紙を伏せた。証言を消せないなら、証言の意味を変えるしかない。だが、焦って動けばかえって目立つ。
「イザベラには、余計なことを言うなと伝えろ」
窓際にいたイザベラは、扉越しにその言葉を聞いて唇を噛んだ。
父はいつも、自分の未来を盤上の駒のように扱う。
彼女自身もまた、他人を同じように見てきたのではないか。
そんな考えが一瞬だけ胸をよぎり、すぐに押し戻した。
夕暮れ、セレスティーヌは友人たちと温室の戸締まりをした。外気は冷たいが、掌には土のぬくもりが残っている。
「怖いけれど、行きます」
誰に向けたともなく、彼女は言った。
エレナが隣で笑う。「帰ってきたら、お茶を飲もう。温かいやつ!」
「ええ。約束ね」
春まで咲かない花もある。だからこそ、今日できる世話を続ける。
セレスティーヌは封筒を胸に抱え、静かに歩き出した。




