第112話 正しい手順の向こう側
王宮の執務室には、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
クラウスは机に並んだ三つの記録を見比べる。学院から提出された証言の保全記録、倉庫の移送台帳、そして王宮に残る承認印の照合結果。どれも一枚では決定打にならない。だが、三つを重ねると、奇妙な空白が浮かび上がった。
「移送日だけが、一日ずれています」と側近が言う。
宰相府のユリウスが照合表を差し出す。その横には、魔法師団所属のフェルディナントが控えていた。
「殿下。印章そのものに魔法の干渉があったと断定できる痕跡はありません。調べられるのは、正式な依頼が届いた範囲だけです」
「分かった。推測を事実の欄に書かないでくれ」
ユリウスは一行を空けて記録を続けた。
「誤記の可能性は?」
「あります。ですが、訂正した者の署名がありません」
クラウスは頷いた。疑わしいからといって、誰かを罪人にしていいわけではない。弟フェリクスに関わる問題なら、なおさらだった。
「原本を封じ、写しを別の担当者に照合させよう。学院側の証言者には、これ以上接触しないように」
「殿下、調査が遅れます」
「早さのために証言者を危険にさらすなら、調査の意味がない」
クラウスは承認印の輪郭を拡大した写しを手元へ引き寄せた。わずかな欠けが、ほかの記録にも見られるのか。書記官は比較表を差し出したが、彼はすぐには結論を口にしなかった。
「殿下。これほど慎重になさると、関係部署から不満が出るかもしれません」
学院長室へ向かう前、セレスティーヌは廊下の窓辺で立ち止まった。磨かれた硝子には、緊張で背筋を伸ばした自分の姿が映っている。
「手が冷たい?」
ノエルが尋ねると、セレスティーヌは小さく笑った。
「ええ。手袋をしているのに」
「質問を忘れそうなら、紙を見てもいいんだよ」
「王子の婚約者が、そんなことをしても?」
「今日は学院の生徒として尋ねるんでしょう」
その言葉に、セレスティーヌは手袋の指を開いた。婚約者という役割が、自分のすべてではない。頭では理解しているのに、身体の方がまだ追いつかない。
室内に通されると、学院長オルディスは机から立ち、客用の椅子を示した。机上には、学院の規則集と、封をした薄い書類袋が置かれている。
「まず、確認したいことをあなたの言葉で聞かせてください」
セレスティーヌは膝の上のメモを握り締めた。
「証言をした方が、後から不利益を受けないようにする仕組みはありますか」
学院長はすぐには答えなかった。曖昧に安心させることができない問いなのだと、その沈黙から分かった。
「絶対に不利益がないとは約束できません。ただし、記録を扱う人数を制限し、本人の名前を必要のない相手へ知らせない措置は取れます。何かが起きた場合の相談先も設けます」
「……そうなのですね」
「完全な保証がないことに、落胆しましたか」
「少し。でも、できることとできないことを教えていただけて、安心もしました」
自分で答えてから、セレスティーヌは驚いた。以前なら、相手の期待に沿う返事を探しただろう。今は、自分の中にある二つの気持ちを、そのまま言えた。
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか。王宮から問い合わせがあった場合、私の意見も、他の方の証言と区別して記録していただけますか」
「もちろんです。あなた自身の意思は、誰かの証言の代用品にはなりません」
学院長の答えは簡潔だった。だが、セレスティーヌには重く響いた。
部屋を出ると、待っていた友人たちの姿が見えた。エレナは駆け寄りかけて、途中で足を止める。
「……お疲れさま。聞きたいこと、聞けた?」
セレスティーヌは頷いた。「ええ。答えが全部、望んだとおりではなくても」
「それなら、今日は一歩進んだね」
ルシアンの言葉に、彼女は初めて、歩いてきた廊下の長さを実感した。
「出るだろうな」
「では、どこまで確認を?」
「手続きに従って責任を負うべき人間が、責任を負えるところまでだ」
窓の外では衛兵が交代している。彼らは決められた時間に持ち場へ立ち、次の者へ異常の有無を引き継ぐ。王宮の書類も同じはずだった。誰が受け取り、誰が判断したかが残らなければ、後から弱い立場の者だけが責められる。
クラウスはふと弟の顔を思い浮かべた。フェリクスの言動についても、噂と事実を分けなければならない。兄として叱ることと、王太子として判断することは、似ているようで違う。
「学院には、こちらの進捗だけを伝えよう。証言の中身を再び語らせる必要はない」
「承知しました」
側近が退出すると、執務室に紙の匂いだけが残った。クラウスは新しい照合欄に日付を書き込んだ。
そのころ学院では、ハルトマン学院長が七人を小さな応接室に招いていた。
――正しい手順を確かめた日の訓練。
学院の訓練場では、三段階の警笛で進む護衛演習が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。先に飛び出したい気持ちを抑え、合図を待つ。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。エレナが一度足を止め、ルシアンの旗が上がってから木剣で標的を弾く。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。ミレイユが「手順って、誰かを待つためにもあるのね」と言う。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
「提出された証言は、所定の手続きで受理した。諸君がこれ以上、独自に証人を探す必要はない」
フィオナが口を開いた。「でも、もしまた誰かが困っていたら?」
「そのときは、まず知らせなさい。自分たちだけで抱え込まないことだ」
セレスティーヌは膝の上で手を組んだ。自分の婚約に関わることかもしれない。それでも、すべてを知る権利があるわけではない。
「学院長先生。わたくしが質問してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「調査の結果がどうであっても、わたくし自身の意思を伝える機会は、ありますか」
部屋が静かになった。アレクシスが彼女を見る。代わりに答えようとはしない。
学院長はゆっくり頷いた。
「当然あるべきだ。ただし、王家との婚約について決めるのは学院ではない。君の父君と王宮にも、正式に申し出る必要がある」
「ありがとうございます」
セレスティーヌは深く頭を下げた。答えは簡単ではない。それでも、初めて道筋が見えた気がした。
応接室を出たあと、ミレイユがそっと肩を寄せる。
「よく言えたわね」
「怖かったわ。声が震えないようにするだけで精いっぱい」
「震えても、伝わったよ」とノエル。
エレナは力いっぱい頷いた。「私なら途中で何を聞きたかったか忘れちゃう」
「それはエレナだけだと思う」とルシアン。
七人の間に笑いが戻る。
学院長の言葉を聞いた後も、セレスティーヌは応接室の扉の前でしばらく立ち止まっていた。廊下には掃除を終えたばかりの石床の匂いが漂い、遠くで次の授業を告げる鐘が鳴っている。
「私、さっきの質問をするまで、何度もやめようと思ったの」
「それでも聞いたんだね」とフィオナ。
「ええ。でも、学院長先生が困ったお顔をなさったら、取り消そうと……」
「取り消さなくてよかったよ」とアレクシスが言った。
彼の声は励ましというより、事実を確かめるように穏やかだった。セレスティーヌは思わず目を上げる。
「あなたが自分のことを尋ねるのは、当然のことだと思う」
「当然……」
その言葉が胸の奥で何度も反響した。彼女にとって当然だったのは、婚約者の立場を守るために口をつぐむことの方だったからだ。
ミレイユが時計を見て手を打った。
「さあ、考えるのはお茶を飲みながらにしましょう。ここで立ち話をしていたら次の授業に遅れるわ」
「えっ、もうそんな時間?」
エレナが駆け出しかけ、ルシアンに襟元を軽く引き止められる。七人の笑い声が、長い廊下に控えめに響いた。
夕刻、クラウスのもとに学院長からの報告が届いた。証言保全の完了と、セレスティーヌが自身の意思表明の機会を求めたこと。クラウスは後者の一文を二度読んだ。
「本人の声を聞くべき時期が来たな」
側近は返答を控えた。王宮の窓の外では、冬を前にした風が木々を揺らしている。
正しい手順は、時に遠回りに見える。だが、その遠回りが誰かの未来を守ることもある。




