第111話 噂のあとに残るもの
学院の朝は、いつもと同じ鐘の音で始まった。
けれど、エレナには少しだけ違って聞こえた。廊下を行く生徒たちの声が、彼女たちの姿を見つけた途端に細くなる。昨日、七人が守った証言の内容は公表されていない。それなのに、何かがあったことだけは広まっていた。
「ねえ、あの子たち……」
ひそひそ声が背中を追う。エレナが振り向きかけると、ルシアンが横から静かに言った。
「今のは、聞き返しても答えが出ない類いの話だよ」
「でも、言われっぱなしは嫌だな」
「分かる。僕だって嫌だ」
その返事が意外で、エレナは彼を見た。ルシアンは笑っていなかった。
「ただ、昨日の証言者が誰かを探している人もいる。僕たちが反応するほど、あの人に目が向くかもしれない」
エレナは握りかけた拳をほどいた。剣を抜けない相手に対して、どう立ち向かえばいいのか。学院に来てから、そんな問いばかり増えている。
階段の踊り場を曲がると、窓の向こうに冬枯れの庭が見えた。昨日まで色づいていた蔦は、今朝の冷え込みで葉を落としている。エレナはその光景を眺め、ふと足を止めた。
午前の休み時間、教室の後ろで一人の女生徒が落とした紙束を拾い集めていた。エレナが手を貸そうとすると、その生徒は一瞬、肩を強張らせる。
「……ありがとうございます。でも、自分でできます」
差し出しかけた手を、エレナは引っ込めた。拒まれたことより、相手が怯えたことの方が気になった。
「ごめん。急に近づいちゃったね」
「いえ。そういうつもりでは……」
生徒は最後の一枚を拾い、教本に挟んだ。周囲の視線が集まっていることに気づくと、ますます口を閉ざしてしまう。
エレナはそれ以上尋ねなかった。隣の席へ戻る途中、ミレイユが小さく頷く。追いかけずに済ませたことを、分かってくれたらしい。
「助けたいと思ったら、すぐ動いちゃうんだよね」
「エレナの長所よ。でも、助けられる側にも、選ぶ余地が必要なの」
「難しいなあ」
「そうね。私だって、相手が困っていると、正しいことを言いたくなるもの」
ミレイユは自分の手帳を閉じた。いつも落ち着いて見える彼女にも、迷いがある。そう知るだけで、エレナは少し気が楽になった。
昼食の席で、フィオナが噂の広まり方を説明した。食堂、図書室、寮の談話室。同じ話が場所を移るたび、登場人物の人数まで変わっているという。
「商会でも似たことがあるの。荷物が遅れた理由を知らない人が、『きっと事故だ』と言い出す。次の人は『事故があったらしい』って話す」
「それが、いつの間にか事実になるのね」とセレスティーヌ。
「うん。だから私は、分からないことを分からないままにしておく練習が必要だと思う」
ノエルが小さく笑った。「それ、薬草の名前を調べるときにも同じ。似ている葉っぱを、思い込みで採るのが一番危ない」
セレスティーヌは温かなスープの器を両手で包んだ。何も解決していないのに、友人たちが普通の話をしてくれることが嬉しい。自分を中心に世界が回るのではなく、皆には皆の授業と悩みがある。その当たり前のことが、今は救いだった。
「明日は私も、図書室の当番を手伝うわ」
「無理していない?」とノエル。
「無理ではないの。……何かを待つだけの一日にしたくないから」
誰かが大げさに褒めることもなかった。フィオナが「じゃあ、棚の右側をお願い」と言っただけだった。その気軽さに、セレスティーヌはほっとして頷いた。
「ねえ、ルシアン。何も言い返さないのって、逃げるのとは違う?」
「違うよ。何を守るために黙るか、自分で選んでいるなら」
「じゃあ、私が我慢できなくなったら?」
「そのときは僕に言って。聞くくらいならできる」
エレナは少しだけ口を尖らせた。彼は昔から、危険なときには先回りして手を貸すくせに、肝心なところで「僕が全部解決する」とは言わない。もどかしいのに、その距離が心地よい。
「ルシアンだって、我慢しすぎたら私に言ってよ」
「……そうだね。約束する」
その返事の前に生まれた短い沈黙を、エレナは聞き逃さなかった。彼にも言えない心配があるのだ。自分ばかりが支えられていると思うのは、少し違う気がした。
二人は再び歩き出した。噂話をしていた生徒が道を譲る。エレナは顔を上げたまま、誰も睨まずに通り過ぎた。
教室では、ミレイユが机の上に薄い冊子を並べていた。
「噂の訂正をするより先に、授業で使う資料を揃えましょう。昨日の点検記録に触れるなら、先生の確認を通したものだけ」
噂が残る朝の放課後、訓練場の片隅で見学者が通る訓練場の外縁を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。人目のある場所でも落ち着いて稽古する。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナが視線を気にせず木剣を受け流し、ルシアンが風で砂を低く押さえる。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。アレクシスが「噂には剣を向けられないが、仲間は守れる」と言う。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
「ずいぶん慎重だね」とフィオナ。
「慎重にならなかった人が、誰かを傷つけることもあるもの」
ノエルはセレスティーヌの顔色を見て、そっと水筒を置いた。
「昨夜、眠れた?」
「少し。考え始めると、止まらなくて」
「じゃあ今日は、休む時間も予定に入れて」
セレスティーヌは苦笑した。「わたくし、守られてばかりね」
「違うよ」とエレナが言う。「私たちは同じ机に座ってるんだよ。誰か一人だけが守られる席なんて、ない」
授業が始まる前、セレスティーヌは窓際の席で教本を開いていた。ページをめくる指が、いつもよりゆっくり動く。
「昨日のことを、みんな知っているのでしょうか」
小さな問いに、ノエルはすぐ答えなかった。水筒の蓋を締め、彼女の隣へ椅子を寄せる。
「何かがあったことは、知っているかもしれない。でも、誰が何を話したかは別だよ」
「わたくしのせいで、誰かが困るのではないかと思うの」
「それを心配する気持ちは分かる。でも、困らせているのは、確かめずに話を広める人だよ」
セレスティーヌは唇を結んだ。自分の名が王子の婚約者として語られるたび、周囲に迷惑をかけないことばかり考えてきた。けれど、そのために何も言わずにいた結果、守れなかったものもある。
「今日は、授業をちゃんと受けたいわ」
「うん。じゃあ、まずそこから」
ノエルが教本の該当箇所を指した。難しい術式の図が並ぶ紙面を見て、セレスティーヌはようやく、今いる場所へ意識を戻せた。
昼の訓練で、エレナは木剣の振りを一度だけ外した。相手の動きが見えていなかったのではない。頭の片隅で、廊下の声を追っていたのだ。
ガルド教官が木剣を止めた。
「剣先は正直だな。心配事まで振り回してどうする」
「……すみません」
「謝るより、足元を見ろ。地面があるなら、立ち直れる」
その言葉を、エレナは何度も噛みしめた。
夕方、学院の掲示板に、証言に関する憶測を広めないよう求める短い通達が出た。誰の名も記されていない。それでも、生徒たちのざわめきは少しずつ小さくなった。
「先生たちが動いてくれたんだね」とエレナ。
「昨日、僕らが提出したのは事実だけだ」とルシアン。「その先を決めるのは、権限のある大人たちだよ」
「待つのって、難しい」
「うん。僕もそう思う」
二人は並んで歩いた。石畳に伸びた影が、夕陽の中でゆっくり重なる。エレナはふと、ルシアンも同じだけ不安を抱えていたのだと気づいた。
「ねえ。明日の朝、剣の練習に付き合ってくれる?」
「もちろん。ただし、ちゃんと寝たらね」
「そこは約束する!」
言い切った直後に欠伸が出て、ルシアンが小さく笑った。
噂はまだ消えない。けれど、誰かを守るために今日できることがある。それを確かめられただけで、エレナの足取りは少し軽くなった。




