第110話 七人で守った証言
学院長の執務室に集まったのは、セレスティーヌと事務官、それに立ち会いを許された教官だけだった。
前任者からの証言は、本人が指定した方法で届くことになっていた。七人が全員で押しかければ、かえって相手を怯えさせる。そう判断した結果だった。
セレスティーヌは膝の上で手を重ねた。学院長の執務室は広く、壁の書棚には古い記録が並んでいる。窓から差す光が机の端を照らし、時計の針が一つ進む音さえ大きく聞こえた。
「わたくしが知りたいのは、誰かを責めるための名前ではありません」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「わたくし宛ての書類が、どこで、どう扱われたのか。その事実だけを確かめたいのです」
学院長はしばらく彼女を見つめ、静かに頷いた。
「その姿勢は、こちらも守りましょう。証言する方の安全も同じように」
セレスティーヌはようやく息を吐いた。以前の自分なら、偉い人の前でこんなふうに希望を伝えることすら難しかっただろう。
「皆がここにいなくても、支えてくれているのは分かります」
セレスティーヌは、事務官にそう告げた。
一方、エレナたちは中庭の端で待っていた。
「何もできないのって、落ち着かないね」
エレナが言うと、ルシアンが笑った。
「昨日より少し、待つのが上手になったと思う」
「褒めてる?」
「もちろん」
「じゃあ、あとで剣の稽古につき合って」
「その条件はどこから出てきたの?」
二人のやり取りに、ミレイユとフィオナが顔を見合わせる。
「いつもの調子に戻ってきたわね」
「うん。でも今日は、私たちにも役目があるよ」
フィオナは備品の納入記録を広げた。前任者の証言と無関係な資料を混ぜないよう、日付だけを整理しておく。ノエルはセレスティーヌが疲れて戻ってきたときのために、温かい飲み物を用意していた。
アレクシスは訓練場の端で、崩れやすい木箱の積み方を見直していた。危険が起きてから盾を出すだけではなく、そもそも危険を減らす。その考え方を、彼は《金剛》の訓練にも生かそうとしている。
やがて、事務室から使いが来た。
前任者の説明によれば、問題の書類は確かに一度差し戻されていた。しかし、それはセレスティーヌ本人の宛名が誤っていたからではない。封筒に添えられた送付先一覧と、実際の受領先が一致しなかったため、確認を求めたのだという。
「それなら、なぜ『宛名不備』と記録されたのですか」
セレスティーヌが尋ねる。
事務官は慎重に答えた。
「古い記録様式では、送付先の不一致も同じ欄にまとめていたそうです。ただ、確認の途中で担当が変わり、本人への連絡が抜け落ちた可能性があります」
「誰かが意図的に消したわけではない、ということですか」
「そこまでは断定できません。しかし、今ある証言だけで誰かを責めることもできません」
セレスティーヌは深く息を吐いた。望んでいたのは、誰かの罪を証明することではない。自分の知らないところで、自分に関わる決定が進まないようにすることだ。
「では、今後は本人への確認を必ず残していただけますか」
「学院長から、手続きを改めるよう指示が出ています」
その返事を聞いて、彼女はようやく肩の力を抜いた。
証言の確認が終わった後、セレスティーヌは学院長の執務室を出て、しばらく廊下の窓辺に立っていた。外では庭師が落ち葉を集めている。箒が石畳を擦る音が、静かな午後に規則正しく響いた。
「疲れましたか」
同行した事務官が尋ねる。
「少し。でも、聞けてよかったと思います」
「証言がすべての答えになるわけではありません」
「ええ。だからこそ、教えてくださった方の言葉を、わたくしの都合のよい形に変えたくありません」
事務官は彼女を見つめ、ゆっくり頷いた。
中庭で待っていた仲間たちは、セレスティーヌの顔を見るなり立ち上がった。
「大丈夫?」
エレナが駆け寄りかけて、途中で足を止める。セレスティーヌはその仕草に気づき、思わず笑った。
「大丈夫。ありがとう、エレナ」
「今日は止まれたよ!」
「ええ。ちゃんと見ていたわ」
七人で証言を守った翌日、学院では小規模な護衛演習が行われた。
学院裏庭の簡単な三対三の模擬戦を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。昨日の緊張を解くために、危険を増やさない稽古をする。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが剣の軌道を小さく変え、ルシアンが風で後衛の退路を作り、アレクシスが《金剛》を短時間だけ使う。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。セレスティーヌが「守られる側にも合図の役目があります」と言う。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
ミレイユが温かい飲み物を差し出し、フィオナは質問を飲み込んで椅子を引いた。ノエルは彼女の疲れた顔を見て、まず休むよう勧める。
「詳しいことは、今は話せないの」
セレスティーヌが告げると、アレクシスはすぐに頷いた。
「分かった。必要になったら、聞かせて」
その短い返事がありがたかった。問い詰められないことも、守られていると感じる理由になる。
夕方、七人はいつもの食卓を囲んだ。学院で起きていることは何も解決していない。けれど、誰かの秘密を無理に共有しなくても、同じ卓に座れる。その当たり前が、セレスティーヌには少し新鮮だった。
「明日の授業、また盾の練習があるんだよね」
エレナがパンをちぎりながら言う。
「ええ。今度は五秒の間に、何を守るかをもっと早く決めたいわ」
「じゃあ、私は合図を待つ練習をする」
「私は疲れ具合を記録するね」とノエル。
「出口の配置は任せて」とフィオナ。
小さな役割が次々と決まっていく。セレスティーヌは仲間たちの顔を順に見た。大きな約束ではない。けれど、明日も一緒に考えると言ってくれることが、今の彼女には何より心強かった。
午後、七人が再び顔を合わせる。
「全部解決したわけじゃないんだね」
エレナが言う。
「ええ。でも、次に同じことが起きたら、確かめる道があります」
セレスティーヌは微笑んだ。
「それだけでも、わたくしには大きなことです」
「だったら今日は、温かいものを飲んで休もう」
ノエルが差し出した杯から、薬草のやさしい香りが立ち上る。
アレクシスは、セレスティーヌが自分の言葉で説明する姿を見つめていた。以前なら、彼女の代わりに誰かが答えを出してしまったかもしれない。今は違う。彼女は自分の足で立ち、必要な助けを選んでいる。
「お疲れさま」
彼は短く言った。
彼女の声は小さかったが、視線は逸れなかった。
アレクシスは少しだけ目を細める。彼女が礼を言うとき、以前は相手の機嫌をうかがうように肩をすくめていた。今は、自分の足で立っている。
「今日は、ゆっくり休んで」
「はい。皆にも、そう伝えます」
それだけの会話なのに、アレクシスの胸には静かな喜びが残った。彼女が笑える日が増えればいいと思う。その願いが何に変わっていくのかを、今ここで確かめようとはしなかった。セレスティーヌにはまだ果たすべき約束があり、彼には越えてはならない境界がある。
だからこそ、ただ見送ることができた。
「ありがとうございます、アレクシス様」
それ以上の言葉は交わさなかった。今の彼女に必要なのは、静かに尊重されることだと分かっていた。
夕暮れの鐘が鳴るころ、王宮でも倉庫の件に関する新たな照合結果が届いた。荷の移送を指示した書類には、正規の経路を通らない承認印が一つ残されていた。
クラウスはその印を見つめる。
傍らではユリウスが記録の保全手順を確認し、アルベルトが証言者の帰路の警護について、必要な場合に限り協力できるよう手配していた。
フェルディナントは魔法的な妨害を疑わせる痕跡がないかを確認したが、現時点では断定できる材料はなかった。
「三人とも、ご苦労だった」とクラウスは言った。
「殿下。こういうとき、ヴィクトル先輩がいれば心強いのですが」
アルベルトの何気ない言葉に、ユリウスが咳払いをする。
「先輩には先輩の生活があります。……もっとも、殿下のお側にいてくだされば、私たちは嬉しいですが」
「お前たちは昔から変わらないな」
クラウスは苦笑した。
「学院の書類とは別に調べよう。誰かの名前を結びつけるには、まだ早い」
窓の向こうで、王都の灯がともり始める。
学院では、七人が一つの証言を守るために力を合わせた。王宮では、まだ見えない思惑が静かに動いている。
答えは遠い。それでも、誰かの意思を置き去りにしないための道は、少しずつ形になり始めていた。




