第109話 消えた証人の居場所
セレスティーヌは事務官の机の前で背筋を伸ばした。
窓際の鉢植えには小さな新芽が出ていたが、室内の空気は張りつめている。
「お話しいただける範囲で結構です」
「ありがとうございます。まだ確かなことは少ないのですが」
事務官は手元の書類を閉じたまま続けた。紙に書かれた事実と、口にしてよい事実は同じではない。学院の記録を守る者として、その線を引くのは自分の仕事だという慎重さが伝わってきた。
「確認したいことがあります」
事務官の声は、いつもより硬かった。
差し戻しの略号を使っていた前任者は、学院を離れて王都の別部署へ移ったと記録されていた。しかし、照会状を送ると、すでにその部署にも在籍していないことが分かったという。
「辞めたのですか?」
セレスティーヌが尋ねる。
「退職届は出ていません。配置転換の記録だけが残っています」
ルシアンは一度息を整えた。
「行方不明と決まったわけではありませんね」
「はい。ただ、今の所在が確認できないのです」
エレナの胸がざわついた。何か悪いことが起きたのではないか。そう思うと、すぐに王都へ走り出したくなる。
「エレナ」
ルシアンが名を呼ぶ。
「……分かってる。まずは、本人が安全かどうかだよね」
事務官は学院長への報告を優先すると告げ、七人にも独自の追跡をしないよう求めた。
「皆さんが動けば、相手が事情を話しにくくなる可能性があります」
セレスティーヌは深く頷いた。
その日の午後、学院の外では別の問題が起きていた。王宮の倉庫調査で、受領票の原本を保管していた棚が移され、書類の一部が別の箱に混じっていたのである。
「紛失ではありません。ですが、整理の手順に不備がありました」
側近が報告する。
クラウスは疲れたように目を閉じた。
「人の記憶も書類も、簡単には完全にならない。だからこそ、複数の確認が要る」
報告役のユリウスは、宰相府の保管記録を示した。騎士団のアルベルトには、行方の分からない前任者を強引に探し出すのではなく、所在が判明した場合の安全確保だけを相談している。
「証言するかどうかは、ご本人が決めることです」とユリウスが言った。
「その通りだ。私たちは話す場所を守る。話す内容を決めてはいけない」
クラウスの答えに、二人は揃って頷いた。
一方、ハインリヒは王宮の動きを聞き、顔色を変えずに書斎の扉を閉めた。
「こちらから動くな」
部下へ告げる。
「何もしなければ、疑われませんか」
「余計な動きほど、疑いを呼ぶ」
彼が恐れているのは、たった一枚の紙ではない。紙を辿った先で、誰がどの時期に誰と会ったかが明らかになることだった。
夕暮れ、学院の中庭で七人は再び顔を合わせた。
「私たちにできることが、急になくなっちゃったみたい」
学院長からの返答を待つあいだ、セレスティーヌは図書室で同じ頁を何度も読み返していた。文章は目に入るのに、意味が頭に残らない。誰かが自分のために危険を冒してくれるかもしれない。その可能性が、ありがたさより先に怖かった。
「休憩しようか」
ノエルがそっと本を閉じる。
「わたくし、待つことがこんなに苦手だとは思わなかったわ」
「待っている間に、できることがないからかもしれないね」
「そうね。自分で動けば早くなるような気がしてしまうの」
「でも、相手が話すかどうかを選べることも大事だよ」
窓の外では、細かな雨が石畳を濡らし始めていた。セレスティーヌは雨粒の筋を追いながら頷いた。
証言者の居場所を探す日、七人は学院の訓練場に集まった。扉の多い模擬廊下を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。誰かを見つけても不用意に近づかないための護衛練習。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが木剣を抜かずに出口を確保し、ルシアンが風で扉のきしみを確かめる。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。ノエルが「安全を伝えてから迎える方がいい」と言う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
一方、学院長は前任者に送る文面を慎重に整えていた。調査への協力は任意であること、名前を学内に公表しないこと、家族への連絡を避けること。相手の要望を先回りして決めるのではなく、選べる余地を残す。
「学院長、ここまで慎重にする必要がありますか」
事務官の問いに、学院長は筆を置いた。
「必要かどうかは、相手の立場で考えなければならん。こちらにとっては書類一枚でも、向こうにとっては暮らしがかかっているかもしれない」
「……承知しました」
その日の夕方、七人が食堂で顔を合わせたとき、エレナは珍しく早口にならなかった。
「何か分かった?」とフィオナ。
「まだ」とセレスティーヌ。「でも、無事だという知らせはあったわ」
「それなら、今日はそれで十分だよ」
アレクシスの声は穏やかだった。
セレスティーヌは、すぐに結果を求める自分の心を責めるのをやめた。知りたいと思うことと、待つと決めることは矛盾しない。大切なのは、相手が答えるまでの時間を、自分の不安だけで奪わないことだった。
エレナが呟く。
「なくなったんじゃないよ」
ノエルが答える。
「今は待つことが、できることなんだと思う」
フィオナも頷いた。
「商会だって、連絡がつかない相手をすぐ不正だと決めつけない。まずは安全を確かめる」
セレスティーヌは、薄くなった夕日を見上げた。
「もし、その方が話すことを怖がっているのなら……わたくしのことで、無理をしてほしくありません」
アレクシスが静かに言った。
アレクシスの声には、普段の明るさとは違う静けさがあった。
「僕らが真実を知りたいと思うことと、相手がすべてを話さなければならないことは別だ」
「……ええ」
セレスティーヌは頷いた。彼の言葉は、決断を代わりに引き受けるものではなかった。彼女自身が選んだ考えを、確かな形にして返してくれる。
「アレクシス、ありがとう」
「君が決めたことだよ。僕は、それでいいと思っただけ」
二人の間に短い沈黙が落ちる。ミレイユが少し離れた場所で皆を呼び、セレスティーヌはその声に応じて歩き出した。今はまだ、胸の奥の温かさに名前をつける必要はない。
「なら、その意思も事務官に伝えよう。証言は、誰かの勇気を借りるものだから」
七人はそれぞれ頷いた。
その夜、学院長のもとへ一通の連絡が届いた。前任者は無事だった。ただし、現在の勤務先については、本人の希望により非公開にしてほしいという。
そして、短い追伸があった。
『必要な確認には応じます。ただし、私の家族には知らせないでください』。
話を聞くためには、まず守らなければならないものがあった。




