第107話 守り方の違う二人
夕方の訓練場に、木剣の乾いた音が響いた。
エレナの踏み込みは鋭い。けれど、今日の相手は彼女の剣を受けることより、止まる合図を出すことに集中していた。
木剣の先が空を切り、エレナの靴底が砂を削った。ほんの一歩、踏み込めば相手の懐に届く距離だった。
「今、止まれたのはよかった」
ルシアンは地面に残った足跡を見下ろした。
「でも、最初の合図を聞いた瞬間、肩が前に出ていた。体はまだ攻撃を続けようとしていたよ」
「耳では聞いてたんだけどなあ」
「だから難しいんだ。頭が理解するより先に体が動くことがある」
エレナは木剣を下ろし、息を整えた。剣を振るうことなら誰よりも得意だと自負している。けれど、振るわない判断を鍛えることも必要なのだ。
「そこまで」
ルシアンの声に、エレナはぴたりと動きを止める。
「今の、もう少しで届いたのに」
「届かせる訓練じゃないよ。合図があったら止まる訓練」
「分かってるってば」
そう答えたものの、エレナは少し不満そうだった。彼女にとって剣は、目の前の問題を切り開くための頼もしい道具だ。止まることが正解になる場面には、まだ慣れない。
「今日の事務室の件も、すぐ確かめに行きたいんだろう?」
「……うん。セレスティーヌがまた嫌な思いをする前に」
「気持ちは分かる。でも、相手の名前が分からないうちに動けば、関係のない人を巻き込むかもしれない」
「ルシアンは、いつも待とうって言うね」
言った直後、エレナは彼の表情がわずかに変わったのを見た。
「僕だって、何もしないで待っているわけじゃない」
静かな声だった。
ルシアンは調べられる記録を整理し、学院の規則を読み、必要なら教官に相談するつもりでいる。ただ、その準備は剣を振るようには目に見えない。
「……ごめん」
エレナは木剣を下ろした。
「私、ルシアンが考えてること、全部分かってるつもりになってた」
「僕も、君がどうして急ぎたいのか、分かったつもりだったかもしれない」
しばらく、二人の間を風が通った。夕暮れの光が訓練場の砂を赤く染める。
「じゃあ、どうする?」
エレナが尋ねる。
訓練場を出る前、ルシアンは木剣を片づけるエレナに声をかけた。
「今日は、止まるのが少し早くなったね」
「褒めてる?」
「もちろん」
「じゃあ、もう少し嬉しそうに言ってくれてもいいのに」
エレナが笑うと、ルシアンも口元を緩めた。子どものころから彼女の剣を見てきた。踏み込む速さだけなら、いつも驚かされている。けれど今、彼が嬉しいのは、彼女が誰かの合図を信じて足を止められることだった。
「僕は、君が危ないところに飛び込むたびに、心配していたから」
「ルシアンだって、私に何も言わずに準備を進めることがあるよ」
その指摘に、彼は言葉を失った。
「私、置いていかれるのは嫌なんだ。助けたいと思ってるのに、全部終わってから聞かされると」
「……そうだね。守るつもりで、君の選ぶ機会を減らしていたのかもしれない」
風が二人の間を通り、砂に描いた線を少しずつ崩した。
守り方の違いを話し合ったあと、訓練場の片隅で正面と背後から迫る模擬敵を使った連携稽古が始まった。
「今日も全力でいい?」
「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」
ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。二人の得意を無理に同じにしない連携を試す。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。
敵役が動いた。エレナが正面の木剣を流し、ルシアンが風で背後の標的を止める。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。
「……今、止まってくれたんだね」
「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」
ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。エレナが「私が前に出るから、後ろはお願い」と頼む。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。
「じゃあ、約束しよう」とエレナ。「私が飛び出しそうなら止めて。あなたが一人で抱えそうなら、私が聞く」
「聞くだけで済む?」
「必要なら、ちゃんと怒る」
「それは怖いな」
軽口を交わしながら、二人は訓練場の門へ歩いた。
そこへアレクシスが、道具の返却を終えて追いついてきた。
「二人とも、さっきの合図はよかったよ。僕は盾を構えることばかり考えていたけど、声が届けば動ける人が増える」
「アレクシスも、セレスティーヌのことが心配?」
エレナの率直な問いに、彼は一瞬だけ歩調を緩めた。
「心配だよ。友人だから」
そう答えたあと、彼は少し考えて付け加える。
「でも、彼女が何を望むかは、彼女自身が決めることだと思う」
ルシアンは親友の横顔を見たが、何も言わなかった。言葉にしない感情があっても、守るべき距離を知っている。その慎重さを、今は尊重したかった。
「今すぐできることと、待つべきことを分けよう」
「私は?」
「セレスティーヌが困っていたら、最初に本人の希望を聞く。それから、必要なら一緒に教官へ行く」
「ルシアンは?」
「事務室の手順を確認する。誰かを疑うためじゃなく、次に同じことが起きないように」
エレナは木剣の柄を握り直した。
「私たち、守り方が違うんだね」
「私が先に走っちゃったら、ルシアンは止めてくれる?」
「止めるよ。必要なら、理由も説明する」
「じゃあ、私もルシアンが考えすぎて動けなくなったら、背中を押すね」
「……それは、少し怖いな」
「ちゃんと加減するよ!」
笑ったエレナの声が、夕暮れの訓練場に弾んだ。
ルシアンは彼女の横顔を見て、胸に生まれた言葉を飲み込んだ。三年間離れていたあいだも、彼女のまっすぐさは変わらなかった。ただ、そのまっすぐさに自分がどれほど救われているかを、まだうまく伝えられない。
「違うから、補えるんじゃないかな」
その言葉に、エレナは少しだけ頬を赤くした。
「……そういうこと、さらっと言うよね」
「何か変だった?」
「ううん。変じゃない」
ルシアンは彼女の横顔を見て、答えを急がなかった。幼いころから一緒にいたからこそ、分からない気持ちもある。だから、確かめながら歩いていきたい。
二人が訓練場を出るころ、校舎の窓に明かりがともり始めた。そこには、事務室からの返答を待つセレスティーヌたちの姿もあった。




