第106話 消された宛名の控え
王立学院の事務室には、午後の陽が斜めに差し込んでいた。
セレスティーヌは招待状の受領確認をするため、担当の事務官を訪ねていた。先日の席次表の件以来、王宮からの書類は本人と事務局がそれぞれ記録することになっている。
「こちらが、先月の控えです」
事務官が差し出した綴りには、受領の日付と書類の種類が整然と記されていた。
事務官の指先は、帳簿の角を丁寧にそろえていた。古い紙は端が毛羽立ち、何度も開かれた頁だけ少し色が薄い。
セレスティーヌは、すぐに名前を探そうとはしなかった。以前の自分なら、間違いがあっても職員に迷惑をかけまいと、曖昧なまま礼を述べて立ち去ったかもしれない。
「日付と、わたくし宛ての記載だけ確認いたします」
「助かります。こちらも記録の取り扱いには気をつけていますので」
事務官の声に安堵が混じった。確かめることは、必ずしも誰かを疑うことではない。双方が同じ事実を見られるようにすることなのだと、セレスティーヌは改めて感じた。
「ありがとうございます。確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。ただし、他の生徒の情報は写さないでください」
セレスティーヌは頷いた。自分の名が消えた席次表のことを思い出しても、指先は以前ほど震えない。
一枚目、二枚目。問題の週の控えには、奇妙な空白があった。彼女宛ての書類が一度受領され、翌日「宛名不備」として差し戻されたことになっている。
「……この記録、初めて見ました」
事務官も眉を寄せた。
「通常は、ご本人にも確認を取るはずなのですが」
「誰が差し戻したか、分かりますか」
「署名はあります。ただ、まずこちらで調べます」
セレスティーヌは、それ以上問い詰めなかった。書類を管理する人にも手順がある。自分の不安を理由に、それを飛び越えるべきではない。
中庭へ戻ると、エレナとルシアンが待っていた。
「何か分かった?」
「わたくし宛ての書類が、宛名不備で戻されていたそうです。でも、まだ理由は分かりません」
「それって、誰かが……」
エレナが言いかけると、ルシアンが静かに首を振った。
「記録があることと、意図的に消したことは別だよ」
「うん。今度は先に決めつけない」
事務官が台帳を戻そうとしたとき、セレスティーヌは一つだけ確認したいことを思い出した。
「この記録を、わたくしが写して持ち帰ることはできますか?」
事務官は少し考えてから、首を横に振った。
「原本の内容には、他の生徒の情報も含まれています。必要な箇所だけ、正式な手続きを経てお知らせします」
「分かりました。お尋ねしてよかったです」
以前なら断られたこと自体に怯えていただろう。けれど今は、守るべき記録が自分以外にもあると理解できた。
廊下に出ると、フィオナが待っていた。手には商会の小さな帳面を持っている。
「どうだった?」
「まだ調べていただいているところ。でも、持ち出せない理由を説明してくださったわ」
「それ、大事だよ。書類って、見せてくれないから怪しいとは限らないもの」
フィオナは帳面を開き、荷の受け渡しで使う控えの仕組みを説明した。差し戻しが起きた場合は、誰が、いつ、どこへ戻したかを別紙に記す。消してしまえば、最初の記録まで失われるからだ。
宛名の控えが問題になった日、学院では小規模な護衛演習が行われた。木箱に貼った似た札を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。小さな印の違いに気づく観察訓練。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが剣先で札の端だけを示し、ルシアンが風で一枚ずつめくる。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。フィオナが「証拠は壊さないのが一番」と言う。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
「名前を消した人を探す前に、いつから空欄だったか分かるといいんだけど」
「そうね。最初から書かれていなかった可能性もあるもの」
セレスティーヌは頷いた。
そのころ事務室では、担当者が古い台帳を一冊ずつ確認していた。前任者の略号が記された頁には、数か月前の書類が挟まっている。紙の端は日に焼け、指で触れると乾いた音がした。
「この印、昔のものをそのまま使ったのかもしれないな……」
独り言を漏らした事務官は、すぐに推測を記録しそうになって手を止めた。まだ確かめていない。そう自分に言い聞かせ、欄外に『旧様式との照合が必要』とだけ書き添える。
夕方、セレスティーヌはその日の出来事をノエルに話した。
「進んでいないように見える?」
「ううん。分からないことが分かったんだよ」
ノエルは静かに答えた。「薬草も、名前を間違えたまま摘むと危ないから」
小さな比喩に、セレスティーヌは笑った。急がず確かめることも、前へ進む方法なのだ。
エレナは真面目な顔で頷いた。
その日の夕方、フィオナが別の情報を持ってきた。学院へ届けられる備品の伝票でも、宛名の表記が途中で書き換えられたものがあったという。
「商会の伝票だから、王宮の書類と関係があるとは言えないよ。でも、同じ時期に似たような処理があったのは気になる」
「もし違う話だったら、時間を無駄にさせてしまうかもしれないね」
フィオナが珍しく弱気な声を出した。
「商会ではね、似た印があっただけで同じ取引だと思い込むと、大変なことになるんだ」
「だから、別々に保管するんでしょう?」
ミレイユは紙を二枚に分け、それぞれに出所と確認日を書き込んだ。
ノエルも頷く。
「薬草の記録でも、症状が似ているからといって原因まで同じとは限らないもの」
セレスティーヌは三人の話を聞き、少し笑った。皆、得意なことは違う。それでも、早合点しないという一点では同じ場所に立っている。
「二つを無理につなげない。だけど、控えは残す」
ミレイユが言う。
セレスティーヌは、ノエルから借りた小さな帳面に日付と確認先だけを書いた。人の名前は、確かめるまで記さない。
一方、学院の事務官は古い台帳を調べ、差し戻しの署名に使われた略号が、現在の担当者のものではないことに気づいていた。
「……前任者の略号?」
彼は首を傾げた。前任者は数か月前に別部署へ移っている。書類の誤記なのか、古い様式が使われたのか。
小さな手掛かりは、まだ答えにならない。それでも、消された宛名の向こうに、確かめるべき人が一人増えた。




