第105話 剣より先に出た言葉
学院の廊下で、エレナは足を止めた。
前方で二人の生徒が話している。セレスティーヌが王宮の席次を自分の都合で変えようとしたらしい、という話だった。事実とは違う。しかも、言葉の端々には悪意が混じっていた。
二人の生徒の間に、わずかな沈黙が落ちた。廊下の向こうから授業へ急ぐ足音が近づき、磨かれた床に窓の光が細く伸びている。
エレナは言葉を続けようとして、胸の中で何かが引っかかった。セレスティーヌがどんな気持ちで王宮の席に立ったのか、自分は知っている。けれど、それを勝手に人前で話していいのだろうか。
「私はその場にいたから、違うって言える。でも……」
言いかけた声が途切れた。剣なら相手の動きを見てから踏み込めるのに、言葉は一度口を出ると戻せない。
「それ、違うよ」
気づいたときには声が出ていた。
生徒たちが振り返る。
「私たちは、聞いたことを話していただけです」
「聞いたことなら、何を言ってもいいの?」
エレナの声が少し強くなる。相手の顔がこわばった。
そこへルシアンが追いついた。
「エレナ」
名前を呼ばれ、彼女ははっとする。剣なら、力の加減を間違えれば相手を傷つけると知っている。言葉だって同じなのに。
「……ごめん。大きな声を出したかったわけじゃない」
相手の一人が困惑したように言う。
「でも、私たちだって、誰から聞いたか言えません」
「言わなくていいよ。ただ、確かめてないことなら、広めないでほしい」
それだけ伝えて、エレナは道を譲った。
教室へ戻る途中、ルシアンは何も言わなかった。その沈黙が、エレナにはかえって気になった。
「怒ってる?」
「怒ってはいない。でも、あの二人は怖かったと思う」
「うん……分かる」
「君は友達を守ろうとした。それは間違いじゃない。ただ、正しいことでも、伝え方で届かなくなる」
エレナは唇を結んだ。自分の力で何とかできると思った瞬間に、周りが見えなくなる。祖父に剣の稽古で何度も言われたことだった。
午後、セレスティーヌは噂を聞いたという生徒の一人から、ぎこちなく声をかけられた。
「先ほどは……お友達が、あなたのことを」
「エレナですね」
「はい。少し驚きました」
セレスティーヌは迷った末、静かに答えた。
「わたくしのために怒ってくれたのだと思います。でも、怖い思いをさせたのなら、申し訳ありません」
「あなたが謝ることでは……」
その日の放課後、エレナは中庭の石段に座り、膝の上で手を握ったり開いたりしていた。剣を振った後なら筋肉の疲れで分かるのに、言葉を交わした後の胸の重さには、まだ名前をつけられない。
「ここにいたんだ」
セレスティーヌが隣に腰を下ろす。二人の間に落ちた木の葉が、風に押されて石段を転がった。
「私、さっきの言い方、よくなかったよね」
エレナが先に口を開くと、セレスティーヌはすぐには答えなかった。
「助けてくれようとしたことは、分かっているわ」
「でも、あなたのことなのに、私が勝手に言っちゃった」
「そうね。わたくし自身が説明したいことと、まだ人に話したくないことがあるの」
セレスティーヌの声は柔らかい。だからこそ、エレナは逃げずに聞けた。
「次に同じことがあったら、どうしたらいい?」
「まず、わたくしに教えてほしい。すぐに訂正した方がいいことなら、一緒に考えたいわ」
「分かった。……でも、あなたがいないときにひどいことを言われたら、我慢できるかな」
剣より先に言葉を出そうと決めた日、七人は学院の訓練場に集まった。二人一組の木剣稽古を見たエレナは、目を輝かせる。
「面白そう! でも、これって何を守る練習?」
「その質問を最初にしてくれて助かったよ」
ルシアンは地面に退路を描いた。攻撃前の停止合図を自分から告げる。それを言葉にするのは簡単でも、実際に体を動かすと判断は遅れる。
木剣を握ったエレナは、普段の勢いを少し抑えた。模擬敵が迫る。エレナが相手の構えを見て「止まって」と言い、ルシアンが風の牽制を解いて剣を下ろす。風が袖を引き、木剣の先で乾いた音が弾ける。敵役が下がるまでの数呼吸、エレナは背後の仲間の位置を見失わなかった。
「さっき、すぐ追わなかったね」
「追ったら後ろが空くでしょ。……前はよく忘れてたけど」
「自分で気づけるなら、十分進歩だよ」
ルシアンの言葉にエレナは照れたように鼻をこする。エレナが「言うのは斬るより勇気がいる」と笑う。見ていた仲間の顔に、緊張が少しずつほどけていった。
「我慢しなくてもいいと思う。ただ、相手を傷つけるための言葉にはしないで」
エレナはしばらく考えたあと、頷いた。
その夜、食堂でミレイユは二人の顔を見比べた。
「仲直りしたの?」
「喧嘩してないよ!」とエレナ。
「そうなの。ちゃんと相談しただけ」とセレスティーヌ。
「それならよかった。エレナが廊下で誰かを叩きのめしたって噂になる前にね」
「叩いてないってば!」
フィオナが吹き出し、ノエルまで口元を隠して笑った。いつもの食卓が戻ってきたことに、エレナは胸を撫で下ろす。
帰り際、セレスティーヌはそっと言った。
「わたくし、あなたが味方でいてくれることを、当たり前だと思いたくないの」
「私も。あなたが困ってるからって、全部決めていいわけじゃないんだね」
二人は顔を見合わせた。分かり合うことは、一度で相手のすべてを知ることではない。知らなかった部分を、何度でも聞き直せることなのかもしれなかった。
「それでも、話してくださってありがとうございます」
生徒は目を伏せ、小さく会釈して去った。
夕方、七人の集まる中庭で、エレナは自分から切り出した。
「今日、ちょっと失敗した」
事情を聞いたミレイユは腕を組む。
「エレナが間違っているとは思わないわ。でも、セレスティーヌの話なのに、本人より先に答えを出しちゃったのね」
「……そうだね」
セレスティーヌはエレナの手を取った。
「怒ってないの?」
エレナが恐る恐る尋ねると、セレスティーヌは少し考えてから答えた。
「怒ってはいないわ。でも、怖かったことならあるの」
「怖かった?」
「わたくしのために、エレナが誰かと争うことになったら……それが、怖い」
その言葉にエレナは口を閉じた。自分は守りたかった。けれど守られる側にも、守りたいものがある。
「ごめん。私、セレスティーヌが何を望むか聞かなかった」
「謝ってくれてありがとう。わたくしも、次は自分の言葉で伝えられるようにしたい」
二人の間で交わされたのは大きな約束ではない。それでもエレナには、剣の構えを一から直すのと同じくらい、大切な学びに思えた。
「守ろうとしてくれて嬉しかった。次は、一緒に考えてくれる?」
「もちろん!」
勢いよく返事をしてから、エレナは少し声を落とした。
「……もちろん、相談してから」
皆が笑う。失敗は消えない。でも、失敗した後にどうするかは選べる。エレナはそのことを、剣ではなく言葉で覚えようとしていた。




