第104話 手紙に書けない心配
午後の自由時間、エレナは寮の机で三枚目の便箋を広げていた。
「じゃあ、一回消す」
エレナはペン先を紙へ近づけたが、どちらの文を消すか決められずに止まった。窓の外では雨雲の切れ間から薄い光が差し、机に置いたインク瓶の影が長く伸びている。
「元気なのは本当。でも、父上に心配させたくないことも、本当なんだ」
ルシアンは返事を急がなかった。彼女の手元にある便箋は、稽古のときの木剣よりもずっと軽い。なのに、エレナはそれを持つ指に力を込めていた。
「心配させない文章と、心配を分け合う文章は、少し違うと思う」
「……ルシアンは、いつも難しいことを簡単そうに言うね」
「簡単じゃないよ。僕も、君への手紙に何を書くか迷ったことがある」
三年間の離れていた時間が、ふと二人の間を通り過ぎた。エレナは顔を上げたが、ルシアンは机の上の封筒に目を落としていた。
「『元気にしています』はもう二回書いたよ」
ルシアンが向かいの椅子から指摘する。
「だって、本当に元気なんだもん」
「お父上は、それを読んだら安心するだろうね。でも、何があったかも知りたいんじゃないかな」
机には北方から届いた手紙が置かれていた。父グレゴールの筆跡は相変わらず簡潔で、母セシリアの追伸だけが長い。リリアが木剣を二本抱えて走り回ったこと、クラリスから研究の便りが来たこと、ヴィクトルが領内の収穫状況を確かめていること。
エレナは笑って読み返した後、筆を止めた。
「でも、セレスティーヌのことは書いていいのかな」
「本人の事情を、勝手に詳しく書くのは避けた方がいい」
「だよね」
「君がどう感じたかなら、君自身の言葉で書ける」
エレナはしばらく考え、『友達が困っているとき、すぐに助けることだけが正解じゃないと分かりました』と書いた。
「……なんか、私じゃないみたい」
「君が書いたんだから、君だよ」
ルシアンの答えはあまりにも当然で、エレナは笑った。
そのころ、セレスティーヌはノエルと薬草園を歩いていた。乾きかけた葉の匂いが、秋の風に混ざる。
「今日は、無理をしていない?」
「大丈夫。昨日はしっかり休みました」
「ならよかった。でも、疲れが残っていたら言ってね」
ノエルは小さな記録帳を閉じた。セレスティーヌはその表紙を見て、思わず尋ねる。
封筒の宛名を書き終えたあとも、エレナはしばらく椅子から立てなかった。父への手紙なら、北の森の様子を聞けばいい。母には新しい授業の話、祖父には剣の稽古、祖母には魔法の制御。家族に伝えたいことはいくらでもあるのに、本当に心配していることほど、文字にならない。
「家に帰りたくなった?」
ルシアンが窓辺から声をかけた。
「違うよ。……ううん、少しはそうかも」
エレナは正直に答えた。「でも、帰ったら何もかも解決するわけじゃないでしょ。セレスティーヌのことも、王都で起きていることも」
「そうだね。だから、心配していると書いてもいいと思う」
「父上に、私が弱くなったって思われないかな」
「グレゴール様は、君が心配することを弱さだと思う人?」
その問いに、エレナは口を閉じた。父が自分に教えてくれたのは、剣を振る速さだけではない。誰かが倒れたら手を貸すこと。守れなかったことを隠さず、次に備えること。
「……思わないね」
――家族への手紙を書きかけた日の夕方。
学院の訓練場では、短い坂と木製の盾が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。
「先に突っ込んでいい?」
「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」
ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。遠くの家族に心配をかけないためにも無理をしないと約束する。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。
開始の笛が鳴った。エレナが坂を駆け上がる前に足場を確かめ、ルシアンが風で盾の裏から砂を払う。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。
「今のは、僕が前に出すぎた」
「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」
エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。ルシアンが「無事に帰るまでが稽古だよ」と言う。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。
「うん」
ルシアンはそれ以上、言葉を重ねなかった。窓から入る風が便箋の端をめくり、エレナは慌てて手で押さえる。
「ねえ、ルシアン。あなたの家にも書く?」
「書くよ。母上から、最近の君はどうしているかって聞かれている」
「えっ、私のこと?」
「エミリアも気にしているみたいだ。リリアと一緒に、今度は何を競争するか相談しているらしい」
「それは止めないと! 二人とも本気になると危ないから!」
「君が言うんだね」
二人の笑い声が、静かな部屋にほどけた。
エレナは新しい便箋を一枚だけ取り出した。家族への近況とは別に、リリアへ短い追伸を書くためだ。『剣の練習は、周りを見てから。約束だよ』。自分が守れているかと考えると少し耳が痛かったが、そこも含めて妹に伝えたいと思った。
手紙は魔法ではない。遠くの誰かの不安を一瞬で消すことはできない。それでも、書くことで自分の気持ちが少し整う。封蝋が固まるまでの間、エレナはその静けさを大切にした。
「わたくしのことばかり記録して、負担ではありませんか」
「負担なら続けてないよ。私、こういう記録が好きなの」
飾らない返事に、セレスティーヌの肩の力が抜けた。
夕方、ミレイユとフィオナは商会の荷札を見比べていた。学院の備品に使う布の納品が一日遅れている。珍しいことではないが、最近は王都の荷の動きに小さな乱れが続いていた。
「商会のことと、学院の噂を一緒に考えない方がいいね」
フィオナが言う。
「そうね。でも、どちらも『確かめる』ことはできるわ」
ミレイユは控えに日付を書き込んだ。
夜、エレナの手紙がようやく完成した。最後に彼女は一行を付け加える。
書き終えてから、エレナはもう一度手紙を読み返した。訓練場で木箱が倒れかけたことは、危険だった事実だけでなく、七人で対処できたことまで書いた。セレスティーヌの魔法については、本人が人に話してよいとした範囲だけに留めている。
「これなら、母上に叱られるかな」
「少しはね。でも、隠していたと分かるよりいいと思う」
「……うん。私もそう思う」
便箋の余白に、エレナは小さな木剣の絵を描きかけてやめた。代わりに、リリアへの一言を書き添える。『お姉ちゃんが帰るまで、庭で振るときは周りを見てね』。自分が同じ注意を受け続けてきたことには、気づかないふりをした。
『心配しなくていいよ。でも、心配してくれるのは嬉しいです。』
封を閉じると、ルシアンが小さく笑った。
「今度は、ちゃんと君らしい」
「最初から私らしかったよ!」
言い返しながらも、エレナは便箋を大切そうに持った。遠くにいる家族へ届けたいことは、強さの話だけではなかった。




