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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第二部「王国の陰謀編」

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第103話 噂より先に届く声

学院の朝、食堂の焼きたてのパンはいつもより少し甘い匂いがした。


「北のものなら、家でも食べたことがあるかもしれない」


エレナがパンに蜂蜜を落とすと、淡い金色の筋が焼き目に沿ってゆっくり広がった。


「食べ比べをするつもり?」とミレイユ。


「味が違ったら、母上に手紙で報告しようと思って」


「その前に、パンの上からこぼれそうよ」


ノエルが小さく皿を寄せた。セレスティーヌはそんなやり取りを聞きながら、ようやく肩の力を抜く。王宮で交わされる会話は、誰の言葉にも別の意味が隠れているように感じることがある。ここでは蜂蜜が甘いと言えば、ただ甘いのだ。


「今日の蜂蜜、北の産地のものらしいよ」


フィオナが皿を覗き込み、エレナが目を輝かせる。


「じゃあ、おかわりしてもいいかな」


「朝の訓練で動く分なら、いいんじゃない?」


「エレナの『動く分』は計算が難しいね」


ルシアンの一言に、ミレイユが笑った。


そんな穏やかな席にも、視線は届く。少し離れたテーブルで、誰かがセレスティーヌの名前を口にした。声は小さい。けれど、本人の耳には十分だった。


「最近、王宮の方にも話が伝わっているらしいわ」


「婚約者として問題があるとか……」


セレスティーヌの手が止まる。


エレナは立ち上がりかけた。だが、袖をそっと引いたのはルシアンだった。


「今、向こうへ行っても、相手は噂を聞いただけかもしれない」


「でも、セレスティーヌが困ってる」


「だから、まず本人に聞こう」


エレナは座り直し、友人の顔を覗いた。


「どうしたい?」


セレスティーヌは少し驚いたように瞬きをした。以前なら、誰かが代わりに怒ってくれることをありがたく思い、そのまま任せていただろう。


「……今日は、食事を続けたいです。せっかく皆と一緒なのですから」


「うん。そうしよう」


エレナが頷くと、ノエルが温かいお茶を彼女の前へ寄せた。


午前の授業では、礼節と公的記録の扱いが題材になった。教官は、事実、推測、伝聞の三つを黒板に書き分ける。


「噂が事実になるのではありません。噂を扱う者が、どこまで確かめたかが問われるのです」


エレナは思わずセレスティーヌを見た。彼女も同じことを考えたらしく、ほんの少し微笑む。


授業後、七人は中庭のベンチに集まった。


「直接抗議するのは、今はやめようと思う」


食堂を出たところで、セレスティーヌは後ろから自分の名を呼ばれた気がして足を緩めた。振り向くと、知らない生徒が二人、窓際で声を潜めている。彼女の目が合った途端、二人は別の話を始めた。


「……また、聞こえてしまった?」


ミレイユの問いに、セレスティーヌは小さく頷いた。


「何を言っていたのかまでは分からないわ。でも、わたくしのことだと思うと、つい」


「分からない言葉まで背負わなくていいよ」


フィオナは軽く肩をすくめた。「商会でもね、誰かが笑っていると、自分の失敗を話しているんじゃないかって思うことがあるの。でも、後で聞いたら昨日の夕食の話だったりする」


「フィオナにも、そんなことがあるの?」


「もちろん。私は何でも平気そうに見えるらしいけど、帳簿の数字を一つ間違えただけで眠れなくなる日もあるよ」


セレスティーヌは思わず微笑んだ。人前で明るい友人にも、見せない不安がある。その当たり前のことが、今は救いになった。


午後の授業では、リディアが魔法の制御について話した。


 噂が広がる中での午後の訓練、訓練場の片隅で見学者が声を出す中での模擬護衛を使った連携稽古が始まった。


「今日も全力でいい?」


「木剣と通常魔法だけ。あと、周りを見て」


 ルシアンが先に念を押すと、エレナは「分かってるって」と笑った。聞こえてくる声に惑わされず仲間の合図を聞き分ける。けれど、焦るといつもの間合いに戻ってしまうことも、二人は知っている。


 敵役が動いた。エレナが歓声に反応せずルシアンの指示で剣を止め、ルシアンが風で旗を立てる。踏み込んだ足の下で小石が鳴り、乾いた木の衝突音が続く。エレナは追撃できる距離にいたが、あえて止まった。後ろの仲間が通り抜けるまで、剣先を低く保つ。


「……今、止まってくれたんだね」


「うん。私だけ先に行っても、みんなが困るから」


 ルシアンは小さく頷き、魔法を解いた。セレスティーヌが「聞くべき声を選ぶ練習ですね」と言う。エレナは木剣を鞘へ戻し、次の課題を尋ねる。その声はいつもどおり明るかったが、相手の返事を待つ余裕があった。


「魔力を大きくすることと、正しく届けることは違います。余計な力を込めれば、術式はかえって乱れます」


セレスティーヌは手元の小さな結晶を見つめた。人に伝える言葉も、同じなのかもしれない。自分が正しいと叫ぶだけでは、届かないことがある。


授業の後、彼女は朝の生徒の一人と廊下で鉢合わせた。相手は驚いたように身を引く。


「先ほど、何かご用でしたか?」


責めるのではなく、尋ねる。心臓は速く打っていたが、セレスティーヌは視線を逸らさなかった。


「い、いえ。王宮の式典でお召しだった髪飾りが綺麗だったと……友人と話していただけです」


頬を赤くした相手を見て、セレスティーヌは息を呑んだ。


「そうでしたの。ありがとうございます」


その場を離れてから、彼女はミレイユの袖を軽くつまんだ。


「わたくし、何も聞かずに決めつけるところだった」


「気づけたなら十分よ。もちろん、本当に嫌な噂もある。でも全部がそうとは限らないわ」


廊下の窓には、午後の空が明るく映っていた。疑いがすべて消えたわけではない。それでも、一つの言葉を確かめられたことが、セレスティーヌには嬉しかった。


エレナが言うと、アレクシスが意外そうに眉を上げた。


「珍しいね」


「私だって考えるよ!」


「もちろん。だから、どう考えたか聞きたい」


エレナは頬をかきながら答えた。


「誰が言ったか追いかけるより、セレスティーヌがちゃんと過ごせる方が大事かなって」


ルシアンは、その言葉を静かに受け止めた。剣で先に道を切り開こうとする幼なじみが、今日は立ち止まって相手の歩幅を見ている。


「いい判断だと思う」


「……ルシアンにそう言われると、ちょっと嬉しい」


彼は返事を探す間に、風に揺れた彼女の髪へ目を奪われた。




一方、学院の掲示板には、王宮行事に関する新しい注意書きが貼られていた。招待状の確認は、本人と学院事務局の双方で行うこと。名簿の写しは無断で配布しないこと。


「前の席次表の件があったからかな」


ミレイユが呟く。


「そうかもしれない。でも、これなら次に同じことがあっても確かめられる」


セレスティーヌは、注意書きを最後まで読んだ。


掲示板の前から離れるとき、セレスティーヌは一度だけ振り返った。紙の端が風に揺れ、留め金が小さく鳴る。


「セレスティーヌ、行こう」


ミレイユが待っていた。フィオナは次の授業の時間を気にし、ノエルは持ってきた本を抱え直している。エレナは少し先でルシアンと話し、アレクシスは廊下を急ぐ生徒に道を譲っていた。


特別な光景ではない。けれど以前なら、自分が立ち止まったことで誰かの時間を奪ったのではと考えたはずだ。


「ええ。今、行くわ」


待っていてくれる人に、追いつけばいい。そう思って歩き出した足取りは、朝よりも軽かった。


噂より先に届くのは、誰かが自分に向けてくれる確かな声だ。そう思えた朝だった。


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