第102話 倉庫番のいない日
王宮の執務室には、乾いた紙と温めた蝋の匂いが満ちていた。
「担当者は病欠でした。勤務簿にもそのようにあります」
側近の報告に、クラウスはすぐには答えなかった。机には三枚の記録が並ぶ。荷の移送指示、受領票、倉庫の勤務簿。日付は一致している。けれど、そこに書かれた人の動きだけが、きれいに重ならない。
「病欠の届けは、いつ提出された?」
「前日の夕刻です」
「本人からか」
「管理者が代理で」
クラウスは窓の外へ目を向けた。王都の通りを行き交う荷車は、いつもと変わらない。だが、その一台一台に人の仕事があり、記録があり、誰かの責任がある。
側近が一歩下がってから、控えめに口を開いた。
「殿下。記録に不自然な点があれば、関係者をまとめて取り調べる方が早いのではありませんか」
「早く結論を出すことと、正しい結論に届くことは別だ」
クラウスは勤務簿の端を押さえた。病欠した者が本当に床に伏せていたなら、疑いの視線を向けられるだけでも負担になる。逆に、何者かがその不在を利用したのなら、本人を責めても何も見えてこない。
「私が知りたいのは、誰かを罰する口実ではない。書類がどの手を通ったのか、その順序だ」
「承知しました。本人の安全と原本の保全を優先します」
ユリウスは原本の保全手続きを引き受け、アルベルトには倉庫番の安全確認だけを依頼した。
「事情を聞く前に、まず本人が無事か確かめてください。取り調べと間違われないように」
「分かった。騎士団の名を盾に脅すような真似はしない」
アルベルトの返事に、クラウスは静かに頷いた。
側近が去ると、クラウスは冷めかけた茶に手を伸ばした。王太子の印章一つで人を呼びつけることはできる。だからこそ、その便利さに慣れてはいけないのだと自分に言い聞かせた。
「管理者を疑うための調査ではない。まず本人の所在と体調を確認しよう。無理に呼び出す必要はない」
側近が頷く。
「それと、受領票の原本を保全してほしい。写しだけで判断したくない」
一方、ヴァイスベルク侯爵邸では、ハインリヒが朝食をほとんど残していた。
「王太子殿下は、まだ調べていらっしゃるのですね」
イザベラが紅茶の縁に指を添える。
「当然だ。あの方は途中で投げ出さない」
「それほど重要な荷なのでしょうか」
「荷の中身より、記録を誰が扱ったかが重要になることもある」
父の言葉はいつも遠回しだ。イザベラは、学院でセレスティーヌが友人たちに囲まれている光景を思い出した。評判を変えようとすればするほど、周囲は彼女たちの振る舞いを見比べる。
「わたくしは、間違ったことを言っているつもりはありません」
「お父様は、わたくしが殿下のお側に立つことをお望みではないのですか」
問いを発した途端、イザベラは自分の声が思いのほか幼く響いたことに気づいた。
執務室を出た調査官は、廊下の窓際で足を止めた。病欠した倉庫番を疑うような質問を重ねた自分の声が、まだ耳に残っている。上司の命令に従っているだけだとしても、相手の暮らしを傷つける可能性は消えない。
「殿下は、あの倉庫番を犯人だとお考えでしょうか」
再び呼ばれて戻ると、クラウスは書類から目を上げた。
「今はそう考える理由がない。病欠の事実と、印が押されている事実は、別々に扱うべきだ」
「ですが、誰かが印章を使ったのなら、管理責任は……」
「責任を問う前に、印章がどこに保管されていたか調べよう。本人が不在でも、共同で使う仕組みだった可能性はある」
調査官は小さく頭を下げた。厳しい言葉よりも、その慎重さが重く感じられた。
午後には、倉庫の帳簿を扱う別の係から返答があった。荷車の入門時刻は記録されている。しかし、荷を積み替えた時刻を記した欄だけが空白だった。
倉庫番がいない日の調査と並行して、学院では小規模な護衛演習が行われた。無人の見張り台と積み荷を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。現場に人がいない場合の護衛手順を学ぶ。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが足跡に見立てた印を踏まずに進み、ルシアンが風で布を持ち上げ死角を探る。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。アレクシスが「いない人を勝手に敵にしない」と釘を刺す。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
「紙が破れているわけではありません」と係は説明した。「最初から記入されていないようです」
「その欄は普段、誰が書く?」
「荷を確認した者です。ただ、忙しい日は後からまとめることもあります」
「では、空欄だけで不正とは言えないな」
クラウスは窓の外を見た。石畳を渡る使者の外套が風にあおられている。王宮の机の上では一枚の紙にすぎなくても、記録の向こうには疲れた人間や、急いで働く人間がいる。
「勤務簿の写しを取り寄せるとき、病欠した者の病状までは求めないでくれ。必要なのは出勤の有無だけだ」
「承知しました」
側近が退出すると、クラウスはもう一度受領票を広げた。きれいに揃った文字の中で、たった一つの印だけが、別の誰かの手を思わせる。疑惑に名前を与えるのは簡単だ。だが、その名前が間違っていたとき、傷ついた名誉は紙を破るようには元に戻らない。
ハインリヒはナイフを置き、娘をまっすぐ見た。
「望みと方法は分けて考えなさい。人は席に座らせれば、その席にふさわしくなるわけではない」
「……セレスティーヌ様は、すでに座っていらっしゃるではありませんか」
「だからこそ、お前は焦っているのだろう」
その指摘に、イザベラの指先が止まった。父の口調は穏やかだったが、甘くはない。朝食室の大きな窓には整えられた庭が映り、一本だけ風に揺れる枝があった。彼女には、その枝が妙に目障りに思えた。
「ならばなおさら、事実と感情を混ぜるな」
ハインリヒは娘を見た。
「王族の近くに立ちたいのなら、誰かを低く見せるより先に、自分が立つ場所を整えなさい」
イザベラは反論を飲み込んだ。父が自分の味方であることと、自分の望みをすべて肯定してくれることは、どうやら同じではない。
午後、ハインリヒの書斎へ密封された商業報告が届いた。王都に流れ込む資金の一部が、通常の商会取引とは異なる経路を通っている。送り主の名前は、幾重にも代理人を挟んで隠されていた。
彼は紙を裏返し、印章の形を確かめる。そこに見覚えのある意匠はない。ただ、取引先の一つに東方の宗教団体と縁の深い商会の名があった。
「……余計な時期に動くものだ」
低い独り言は、誰にも届かなかった。
同じ頃、クラウスのもとにも別経路の報告が届く。王都の一部商会で、相場に見合わない額の前払いが続いているという。
「倉庫の件と関係があると?」
側近が尋ねる。
「まだ分からない。だから別件として記録する」
クラウスは二つの書類を、机の左右に分けて置いた。
結びつけるのは簡単だ。だが、結びついていないものを無理につなげれば、真実から遠ざかる。
夜、王都の灯が一つずつともるころ、彼は新しい照会状を書き始めた。




