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辺境子爵令嬢は平穏に暮らしたい ~剣と魔法の才能を隠して、普通の学院生活を送るはずでした~  作者: EA
第二部「王国の陰謀編」

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第100話 残った印と小さな約束

王宮の朝は、鐘の音とともに始まった。


 クラウスは机に置かれた受領記録を見つめていた。


 ユリウスが宰相府から持参した照合表には、記録の受け渡し時刻が細かく並んでいた。アルベルトの報告は関係者の安全に限られ、フェルディナントは術式の関与を示す証拠がまだないと記している。


 三人が同じ結論へ急がず、それぞれの持ち場から事実を積み上げていることを、クラウスは頼もしく感じた。橋の通行止めで荷が一時保管されたことは確かめられた。問題は、その荷を受け取った倉庫の印だった。


「登録されている印と、細部が違います」


 側近が拡大した写しを示す。


「偽造ですか」


「まだ決められない。古い印を使っている可能性もある」


 クラウスは慎重に答えた。


 証拠が足りない段階で断定すれば、調べるべき相手が身を隠すだけではない。無関係な人間まで傷つける。


 彼は倉庫の管理者へ正式な照会を出すよう命じた。




 その頃、ハインリヒは侯爵邸の書斎で報告を聞いていた。


「王宮が、受領印について問い合わせを始めたようです」


「どこまで知っている」


「現時点では、印の不一致のみかと」


 侯爵は窓辺へ歩いた。


 庭には雨上がりの光が差し、葉先の水滴が小さく揺れている。整えられた庭を眺めながら、彼は思った。


 慎重な相手は厄介だ。強引に踏み込んでくれれば、政治的な圧力だと非難することもできる。だがクラウスは、必要なことだけを一つずつ確かめてくる。


「記録を改めるな。今あるものを動かせば、かえって目立つ」


「では、どのように」


「こちらも、事実を確認するだけだ」


 部下は頭を下げた。


 王宮から届いた照会の知らせを聞き、ハインリヒはしばらく書斎の扉を閉ざした。


 壁に掛けられた地図には、王都と西の街道、北方の交易路が細い線で結ばれている。どれも人が往来する道だ。道があるから物が動き、物が動くから情報も流れる。


 その流れをすべて一人で握ることなど、できはしない。


「……慎重な王太子だ」


 彼は独りごちた。


 机の上にはイザベラからの短い手紙も置かれていた。学院での評判が思うように変わらない、と控えめな筆致で記されている。


 娘はまだ、他人の目を動かせば未来が変わると思っている。


 ハインリヒ自身は、それだけでは足りないことを知っていた。人は噂で動くこともあるが、最後には制度や記録が残る。だからこそ、その記録を扱う者を見誤ってはいけない。


 彼は返事を書き始めた。


『焦るな。誰かを責める言葉は、まず口にした者の品位を問われる』


 書き終えたところで筆を止める。


 娘に伝えるべきことは、これだけではない。しかし、今はそれ以上を書かなかった。


 封をすると、窓の外で一羽の鳥が枝から飛び立った。


 小さな羽音はすぐに消えたが、静けさだけが残った。




 学院では、セレスティーヌが合同訓練を終えたところだった。


 聖晶の小さな盾は、今日も長くは保てなかった。五秒ほどで銀白の光がほどけ、彼女は肩で息をする。


「十分だよ。今の位置なら、避難する人が通れる」


 ――小さな約束を交わした日の放課後。


 学院の訓練場では、合図と同時に転がる木球と模擬剣が用意されていた。今日の課題は、敵役を倒すことではなく、危険を見極めて味方を通すことだ。


「先に突っ込んでいい?」


「まず合図を聞いて。エレナの一歩は、普通の人の三歩分くらい速いから」


 ルシアンの返事に、エレナは口を尖らせた。だが、彼が言いたいことも分かる。約束を形にするため、三人がもう一度短い試合をする。そんなときこそ、慣れた剣に頼りすぎてしまうのだ。


 開始の笛が鳴った。エレナが模擬剣を受け流し、ルシアンが風で木球を逸らし、アレクシスが《金剛》で最後の衝撃を受ける。木のぶつかる乾いた音が響き、砂が靴底で小さく鳴った。三人は一度も互いの進路を塞がず、最後の標的が止まったところで構えを解いた。


「今のは、僕が前に出すぎた」


「ううん、私も見てなかった。次は先に言う」


 エレナが素直に答えると、ルシアンの目元が緩む。セレスティーヌが「一度で全部を守らなくていい」と笑う。勝ったことより、互いの動きを確かめられたことが、今日の収穫だった。


 アレクシスが地面の印を示した。


「でも、もう少し安定させたいです」


「なら次は、形を変えずに試してみよう。無理はしないで」


 セレスティーヌは頷いた。


 彼の言葉は、できなかったことを責めるものではない。できたことを確かめ、その先を一緒に考えるものだった。


 少し離れた場所でエレナが木剣を振っている。


「あと一回!」


「その『あと一回』は三回目だよ」


 ルシアンが呆れた声を出した。


「今度こそ本当に最後!」


「じゃあ僕が数える」


 そのやり取りに、皆が笑った。


 訓練が終わると、セレスティーヌは寮へ戻る道でエレナに話しかけた。


「わたくし、以前は失敗するところを見られるのが怖かったのです」


「今は?」


「まだ怖いです。でも、皆が何を見ているか、少し分かるようになりました」


「何を?」


「できなかったところだけではなく、次にできそうなことを」


 エレナは嬉しそうに笑った。


「それ、すごくいいね」


 夕暮れの風が二人の髪を揺らす。


 王宮ではクラウスが、倉庫からの返答を受け取っていた。


 古い印を使った記録はない。ただし、問題の荷はすでに別の倉庫へ移されていたという。


「移送先は?」


 側近が書類の末尾を指した。


 そこには王都の外れにある保管施設の名が記されていた。


 クラウスはしばらく考え、静かに命じた。


「明日、正式な手続きを踏んで確認しよう」


 遠い北方の異変も、学院の婚約問題も、まだ答えは出ていない。


 それでも、誰かが残した小さな印が、次の扉へ続いていた。


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