第98話 雨で止まった馬車
雨は三日続いた。
王都へ入る西の街道では橋の補修が始まり、荷馬車が長い列を作っていた。積み荷の一部は王宮の備蓄品で、遅延は小さな問題では済まない。
クラウスは報告を受けると、街道管理の責任者を呼んだ。
騎士団から連絡を受けたアルベルトは、通行止めの現場に護衛が必要かを確認した。雨で足止めされた者たちを、調査のために危険な道へ戻してはならない。
「ヴィクトル先輩なら、まず馬車の乗客を安全な場所へ移すでしょうね」
「そうだな。だが今回は、お前の判断として進めてくれ」
クラウスの言葉に、アルベルトは背筋を伸ばした。
「橋の安全が第一だ。急がせて事故を起こしては意味がない」
「ですが、輸送が滞れば各地の倉庫に影響が」
「代替経路を探そう。商人の負担も確認してほしい」
机上の地図には複数の道が引かれている。しかし紙の上で短い道が、実際に通れるとは限らない。
同じころ、ハインリヒのもとにも遅延の知らせが届いた。
予定していた荷が動かない。使者はそう告げた。
「自然の都合は、人の思惑に従わぬものだ」
侯爵は静かに答えたが、指先は机の縁を一度だけ叩いた。
彼にとって困るのは、遅れそのものより、遅れた荷を誰かが調べることだった。
「荷主へ余計な説明をするな。必要な届け出だけ整えよ」
「承知しました」
街道では、雨を避ける場所さえ足りなくなっていた。
荷馬車の御者たちは橋の手前に列を作り、濡れた外套の裾を絞っている。馬の鼻息が白く見えるほど気温が下がり、車輪の溝には泥が詰まった。
「あとどれくらい待てばいいんだ」
年配の御者が橋番に尋ねた。
「安全の確認が済むまでだ。無理に渡れば、荷ごと川へ落ちる」
「それは分かってるさ。だが、食べ物は待ってくれない」
隣の荷馬車には保存食が積まれていた。荷台を覆う布の端から雨水が垂れ、若い商人が何度も結び目を締め直している。
その様子を見た街道管理の役人は、急ぎの荷だけを別の道へ回せないか考え始めた。だが山沿いの道はぬかるみ、川沿いは増水している。
簡単な解決はなかった。
報告を受けたクラウスは、地図の上で指を止めた。
「遅延の責任を問う前に、現地で何が必要か聞いてほしい。馬の飼料と、御者たちが休める場所も」
「物資の遅れだけでなく、待っている人々のことも、ですか」
「もちろんだ。荷を運ぶのは人だからね」
側近が退出すると、窓を叩く雨音だけが残った。
そのころ、学院の中庭にも大きな水たまりができていた。
学院では雨のため、剣術の屋外訓練が中止になった。
「残念……」
エレナが窓に額を寄せる。
「休めるときに休めるのも才能だよ」
雨で馬車が止まった日の学院、学院では小規模な護衛演習が行われた。水を含んだ土と滑る木板を使うと聞いて、エレナは木剣の握りを確かめる。
「速く片づければいい、という課題じゃないんだね」
「そう。相手を止めても、守るものを壊したら失敗だ」
ルシアンはそう言って、仲間の立つ位置を指さした。濡れた路面の怖さを忘れないための実地稽古。エレナも頷く。目の前の敵役だけを見れば、彼女の剣は速い。けれど、守りたい人はいつも背後にいる。
笛が鳴る。エレナが歩幅を縮めて剣を受け、ルシアンが風で目の前の雨粒を払う。木剣と盾が触れる鈍い音、風の低い唸り、靴底が床を擦る音が短く重なった。訓練が終わると、エレナは額の汗を袖で拭った。
「私、一歩だけ遅かった?」
「半歩かな。でも、その半歩で後ろが安全になった」
「じゃあ、次も同じようにする!」
「状況が同じならね」
ルシアンの慎重な答えに、エレナは笑う。アレクシスが「踏ん張り過ぎると滑る」と教える。勝敗よりも、何を守れたかが二人の話題になっていた。
ルシアンは教本を閉じた。
「それ、誰の言葉?」
「僕の」
「便利な言葉を作るね」
アレクシスが笑いながら二人に合流した。
「なら、今日は座学で盾の連携を考えよう。セレスティーヌにも聞いてみたい」
図書室では、ノエルが結界術の図を広げていた。
「聖晶の盾は五秒ほど。前線の衝撃を全部受けるのは危険」
「俺の金剛も万能じゃない。強化しても衝撃は残る」
アレクシスが真剣な顔になる。
「だから、盾を重ねる場所を考える。正面を俺が受けて、側面の退路を聖晶で守る形ならどうだ」
セレスティーヌは図を見つめた。
「わたくしの盾は、まだ大きくありません」
「大きくなくていい。必要な場所に、必要な時間だけ」
彼の言葉は訓練の相談であり、それ以上の意味を求めるものではなかった。
エレナは机の上の駒を動かした。
「じゃあ私は、盾を壊しそうな相手を先に止める!」
「君はすぐ前へ出るね」
ルシアンが苦笑する。
セレスティーヌは、仲間と一緒に考える時間が好きだった。誰かの婚約者としてではなく、ひとりの訓練仲間として意見を求められる。
その日の夕方、街道管理局から王宮へ新たな報告が届いた。
橋の手前で待機していた荷馬車のうち、一台だけが届け先を変更していた。
「雨を避けたのかもしれません」
側近は言った。
「そうかもしれない。理由を確かめよう」
クラウスは地図に小さな印をつけた。
雨が上がっても、紙の上の疑問は消えなかった。




