第七話
登校中、車内にマジックテープの副雑音を響かせる。
俺の財布の音だ。
「唯人さん。その手に持っているものは何ですか?」
チーターのロゴが入った財布を、愛彩が物珍しそうに見ながら問う。
「……俺の財布だけど」
「お財布だったのですね」
羞恥心と惨めさが体の内から溢れ出してくる。
そうだよな。ろくにポイントカードを収納できないマジックテープの財布なんて、今時の高校生は使わないよな。
「……買いかえてぇなぁ」
つい、本音をぼやいてしまう。
「どうしてです? そのお財布にご不満が?」
この悪気無く聞いてくる感じで、余計に惨めになる。
「お嬢様。そいつの持っている財布はマジックテープの恥ずかしい代物です。謂わば、小学生の頃から使っている財布です」
「ぐっ……」
悔しいが、椿の言う通りだ。
小学生の頃から使っているのは事実だし、新しく買う金も無い。
「恐らく、その財布で駄菓子屋でビリビリと音を立てながら商品の代金を支払ったり、親戚から受け取ったお年玉を大切に仕舞っていたことでしょう」
「要するに、年代物ね!」
このメイドの解像度が滅茶苦茶高すぎないか?
「唯人さんは、年代物のお財布なのに、気に入っていないのですか?」
俺が悲しそうな表情をしたからなのか、愛彩が心配そうに顔を覗き込む。
「だって、マジックテープだぜ……。少なくとも、これを使っている光恵学院の生徒は俺、一人だけだろうな」
物を大事にしない主義ではない。むしろ今まで大事に使ってきたからこそ、俺はこれを使っている。だけど、それとこれとは話が別だ。
「そういうものなんですか」
何故か思慮深い顔になる愛彩だったが、学園に到着したので俺達は車から降りた。
「はい、唯人さん」
昼食後、愛彩からオレンジ色の紙袋を受け取る。
側面に、あの有名な高級ブランドのロゴ。
「なんだ、これ?」
「よろしければ、直接中身をご覧になってください」
恐る恐る中を見ると、文庫本より一回り大きめの箱が入っている。
蓋を外すと手帳カバーのようなものが。
「財布……?」
「はい! 唯人さん、新しいお財布が欲しいと仰っておりましたので」
「えっと。それって、つまり」
「勿論、差し上げます!」
屈託の無い、満面の笑みの愛彩。
昨日の今日どころか、今朝の今だぞ。
どうやって取り寄せたんだ。
「因みに、いくらすんだ……?」
「存じ上げません! 物を買う時、基本は値段を確認致しませんので」
なにそれ、お嬢様ムーブにも程がある。
だが、ネットで調べれば、ある程度の予想は出来るだろう。
後でこっそり調べるか。
「ん……? 中に何かカードが入ってるな」
取り出すと、カードの正体が瞬時に理解出来た。
表面の左に金色に輝くICチップと右下にJCBのロゴが入っている。
要するに、クレジットカードだ。
「私の家族カードです。ご自由にお使いください」
「いや、これ。クレジットカードだろ……? というか、財布も高いよな? ただでさえ生活の世話になっている身で、いくらなんでも受け取れないって」
「貴様……。愛彩お嬢様のご厚意を無下に――」
「無下とかじゃねぇから! この財布の値段知らねぇけど、きっと一桁万円とか二桁万円するよな!? 少なくとも一般庶民は、こんな高額な贈り物を易々と受け取らねぇんだよ!」
思わず俺は反射的に言い返してしまった。
まさかの語気が強めの反論に、椿は瞳を丸くさせながら体をビクッとさせる。
「あ、すまん。つい、大きな声が出ちまった」
「……いや、別に」
うわ、なんか涙目になってきたぞ。
これ、俺のせい?
「唯人さん。そちらは、入学祝いということで、どうですか?」
空気を読んだからなのか、もっともらしい名分を言う愛彩。
俺は、自分の意思で光恵学院を選んでいないし、自力で光恵学院の受験に合格した訳ではない。
だが、これ以上の落としどころも無いような気もする。
愛彩が快く差し出しているのなら、受け取らないという選択肢は愛彩に対して失礼な対応になり得るだろう。
「わかった……。じゃあ、ありがたく受け取らせて頂きます」
愛彩の表情が一気に明るくなる。
愛彩だけではない、椿も安堵した柔らかい表情をした。
「良かった! そのお財布、大切に使って頂けると嬉しいです!」
「当たり前だ!」
大切にするのは当然だ。この財布が高額である以前に頂き物だ。
自分で買った時よりも大切に扱いたい所存である。
「だ、だが流石に家族カードは返して置きたいんだが……」
「あら。そちらも入学祝いに含まれていますよ?」
愛彩の笑顔に圧が加わった。
「唯人さんは、つい十秒程前に『ありがたく受け取らせて頂きます』と仰っていました」
唾を飲み込んだ俺に、愛彩が続ける。
「それと直接の関係は無いのですが。内容はともあれ、唯人さんは私の可愛いメイドを泣かしましたよね?」
「いや、それは……」
「内容はともあれ、と申しました。乙女に涙を流させたのは事実です」
淡々と続ける愛彩。
「それに、私達は家族同然です。一つ屋根の下で暮らしているのですから」
「わ、わかった! カードも受け取る! 受け取らせて頂きますから……」
俺の言葉を聞くや否や、愛彩は左手を頬に当てて照れ隠しのように笑った。
「限度額は高めに設定してありますから、遠慮なく使ってください♡」
「は、はい……」
愛彩の言う通り、何かあれば使わせてもらおう。
だが幸いにも、俺は物欲がそんなに無い。滅多に使う機会は無いはずだ。
昼休み終了の予鈴が旧校舎まで響く。
愛彩は静かに立ち上がった。
「さあ、教室へ戻りましょう。授業に遅れてしまいます」
俺と椿も食べ終わった弁当箱を片付ける。
机と椅子を元の場所に戻し、空き教室から出ようとした時、背後から小さく舌を鳴らす音が聞こえた。
「さ、最初から素直に受け取っておけ……。このバカ」
振り返ると膨れっ面の椿と目が合ったが、すぐに目を逸らされた。
怖いメイドだと思っていたが……。実は椿って、か弱い女の子か?
「お前。私のこと、か弱いと思っただろ?」
まさかの図星な指摘に、冷や汗が出てくる。
屋敷に帰宅してからの放課後、俺は何故か道着に着替えさせられていた。
畳がびっしりと敷かれた道場のような部屋に、同じ道着姿の椿と向かい合う形で立つ。
「普段は強気な癖に意外と弱いな、この女は。とか思っただろ?」
鋭い眼差しで椿は続ける。
「今から、その認識を叩き潰す。昼間の恨みと共に」
やはり大きな声で驚かせてしまったこと、根に持っていたのか……。
だって、普段からあんな口調で俺に殺すとか言ってくるんだ。一つや二つのギャップくらいは感じる。
椿は、構え始めた。
かなりの威圧感だ。昼間のか弱さが嘘のように思える。冗談抜きで、死の恐怖を感じた。
「覚悟しろ!」
不意な怒号にたじろぐ俺。椿が見過ごすはずも無く……。
襟元を掴まれたと思った次の瞬間、俺の体は宙を舞った。
背負い投げされた俺は、大きな音を立てて畳に打ち付けられる。
「いってぇ……」
何とか受け身を取ったものの、腕力と遠心力が凄まじい。
その細い体の、どこにそんな怪力を隠しているんだ。
「立て」
俺の頭上で仁王立ちする椿。
どうやら、まだお許しを頂けないらしい。
「お、お手柔らかに頼む」
無視して構える椿。
だが、次は俺も抵抗するぜ?
勿論、拳で。
しかし、襟を掴もうとした俺を、いとも簡単に椿は避ける。
「甘い……ッ!」
しまったと思った刹那、右腕の袖を掴まれながら腰に手を回される。
椿が腰を回すのと同時に俺は再び投げ飛ばされていた。
俺の体が打ち付けられる音が無慈悲に響く。
「どうだ! 私は……。弱くない! 泣き虫じゃない!」
「……してやったりという顔をしているが、俺は一言もそんなことは言ってないぞ」
椿は少し考える表情をして見せたが……。
「言っていただろう……。ん? 発言自体は無かったか。だが、顔には出ていた」
椿は俺に説明すると言うよりも、自分に言い聞かせるように呟く。
「早く立て。まだ終わっていないぞ」
くそ。俺だって男だ。
勝てる見込みが無くとも、限界までは何度だって立ち上がってやる。
俺はゆっくりと立ち上がる素振りを見せた後、不意を突く形で椿の襟を掴む。
よし、これで一本取った。
そう思って足を掛けて倒そうとしたが、俺の目線は天井を向く。
なんだ、今のは。カウンター?
我に返った俺は再び立ち上がろうとするが、椿が俺に跨り腕を交差させて締め上げられる。
「……ッ!?」
苦しい。同時に控えめで小振りな胸を強く押し付けられているが、その感触を男として楽しむ余裕など無い。頭がクラクラし始め、視界が定まらなくなってきた。ギブアップの意で椿の腕を必死に叩くも、頚動脈を締めている手が緩むことはない。
「おい、良いことを教えてやる」
目の前に近づけられた椿の顔は、悪魔のような笑みをしていた。
「お嬢様がお前にプレゼントした財布の値段は定価で十五万円だ」
やっぱり高価なものじゃねぇか。
徐々に苦しさが薄れていく。
代わりに、意識が遠のく感覚が現れ始めた。
「ついでに、もう一つ。冥土の土産に教えてやろう」
いよいよヤバい。意識が朦朧とし、段々と遠くなる椿の声。
俺は、もう駄目かもしれない。
椿は、気を失いかけている俺に、構わず得意げな顔でこう言った。
「私は……。柔道四段だ」
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