第十九話
いつの間にか寝てしまったようで、俺は頬と腹に感じる圧力と痛みによって目が覚めた。
見ると、痛みを感じる箇所に愛彩の足が豪快に置かれていた。
「……寝相、悪すぎだろ」
枕元の時計を見ると、まだ四時を過ぎた辺りだ。
窓の外を見ると、まだ薄暗い。
二度寝したいところだが、ベッドは寝相大爆発のお嬢様が占領している。
眠気覚ましにシャワーでも浴びるか。
俺は愛彩の姿勢を戻し布団を掛け、浴室へ向かった。
いつもは愛彩に言われるがまま、三階の一般家庭用にしては大きめな浴場を使わせてもらっているが、今回は朝シャンするだけなので同じ階の風呂場を借りることにする。
着替えを片手に脱衣所のドアノブを引くと、隙間から中の明かりが漏れた。普段から電気は点けっぱなしなのだろうか。
特に深く考えないまま、戸を引く。
ぼんやりとしながら中へ入ると、視界に飛び込んできたのは鍛え抜かれた引き締まった腹筋。
小振りながらも張りと弾力のありそうな胸。
朝露のように水滴が乗っている赤髪。
そして、弧を綺麗に描いたような狐目。
中には椿が濡れた体をバスタオルで拭いている最中だった。
俺は健全な男子高校生である。
下心は持っていないにせよ、愛彩に抱きつかれれば胸は高鳴るし、華娜に至近距離まで顔を近づけられたらドキドキするし、レンに誘惑されれば少しはそういうことを想像してしまう。
だが、誰彼構わず欲情してしまうほど盛ってはいない。
椿のことは本人には失礼かもしれないが、面倒で意地悪だけど世話焼きなお兄さん。
もしくは、ダルい同性の先輩という認識だ。
それも、たった今覆ってしまった訳だが。
刺激の強すぎる情報を前にした寝不足な俺の脳が繰り出す体への命令は凝視だった。
「……おい。いつまで見ているつもりだ」
椿の声で俺はハッと我に返る。
「わ、悪い! け、けけけ、決してわざとではなくって。だ、な……?」
漫画やアニメでお決まりの展開を前にして、咄嗟に顔を逸らしながら弁明する俺。
それでも無意識に椿の美しいボディーラインを目で追ってしまうので、目元を手で覆う。
「…………」
椿は呆れたようにため息を漏らしてから、黙って体の水滴をタオルで取っていく。
指の隙間から様子を窺うと、既に下着を身に付けてシャツに腕を通している。
「すまん。本当に。すまん!」
今更とも捉えられるようなタイミングで、俺は謝罪の言葉を叫びながら脱衣所のドアノブを押し込むように扉を閉めた。
迂闊だった。
百歩譲って自分の家ならまだしも、ここは八ヶ崎邸。
つまり、他人の家だ。
ノックくらい、するべきだっただろ。
俺は一人反省会で頭を抱えながら、三階の風呂場へと向かった。
「学院に通うのが久しぶりで楽しみです!」
登校中の静かな車内で愛彩がウキウキに言う。
「久しぶりって。一日ぶりだろ?」
「私にとっては久しぶりなんです」
「左様でございますか」
楽しそうな愛彩を横目に、俺は助手席に座る椿の様子をチラっと見てしまう。
「……なんだ?」
「あ、えっと。別に……」
ドアミラー越しに目が合うと椿に怪訝な顔で言われ、つい目を逸らす。
「お二人とも、何かあったのですか?」
流石に普段の様子と異なる俺達を見て疑問に思ったようで、愛彩が鋭い指摘をする。
唾を飲み込みながら椿を注視していると、淡々とした様子で話しだす。
「はい、お嬢様。実は今朝、この男に裸を見られました」
一番知られたくない相手に暴露されてしまった。
愛彩は「あらあら」と言いながら、左の頬に手を当てている。
「ガン見ですよ、ガン見。野獣のような眼差しで視姦されました」
「まあ! 唯人さん、意外に大胆なのですね。昨晩、私と一夜を過ごしたばかりですのに」
「そうだったのですか。では、夕飯は赤飯を炊きます」
まるでコントのようなやり取りをする二人。
「いや……。朝シャンしようと思って覗いてしまったのは事実だが……。その、すまん」
謝罪すると、愛彩も椿も特にリアクションをせず黙ってしまった。
無音で街灯や街路樹が横を通り過ぎていく。
死ぬほど気まずいので今すぐ車から飛び降りたい。
「では、ゆい。お前には責任を取ってもらう」
「せ、責任……?」
「そうだ。お嬢様と結婚しろ」
「いや、そっちかい」
話の流れ的には愛彩じゃなくて椿だろ。
まあ、例えこいつに求婚されたところで性格的問題を鑑みてイエスと返事をすることは無いが。
俺達三人の頓珍漢なやり取りを見たせいなのか。珍しく車内で笑い声を漏らしたのは運転中の執事さんだった。
「……何がおかしいんです? 執事長」
いち早く反応したのは主人の愛彩ではなく、隣に座る椿。
心なしか、俺を見る普段の目付きより酷く冷たい。
「いえ、何でもございませんよ」
「今、笑いましたよね?」
「いいえ?」
「笑いましたよね?」
「……失礼致しました」
「何故、笑ったんですか?」
「今、業務中ですから……。私語は控えさせて頂きます」
その二人の様子を面白そうに見ながら愛彩が口を挟む。
「構いませんよ。運転にさえ集中して頂ければ、私語の一つくらいは」
「かしこまりました、お嬢様。では彼女に一言だけ……。お前、このチャンス捨てて良いのか? 貰い手、居ないだろ?」
「きっさまぁーっ!」
今にも飛びかかる勢いの椿。
目の前でシートベルトを外そうとカチャカチャし始めたので、咄嗟に後ろで止める。
「愛彩お嬢様。業務中の私語、大変失礼致しました」
「おい! まだ話は終わってないぞ!」
一瞬にして、執事さんは普段の悠然とした様子に戻るが、椿は吠え続けている。
「あら。別にもう少しお話しても構いませんのに」
「口は災いの元と言いますし。これ以上は――」
「どの口が言うか!」
耐えられずに遮った椿を見て、愛彩と執事さんは静かに笑う。
「なっ、何がおかしい!」
「お嬢様、到着致しました」
「あ! こら、待て!」
執事さんは椿の怒号を華麗にスルーし、一旦車から降りて右の後部座席のドアを開けた。
椿は大きな舌打ちをしてから車を降りる。
俺も続けて自分でドアを開けて外へ出た。
「愛彩お嬢様、唯人様。いってらっしゃいませ」
深々とお辞儀する様子は同性の俺でも見惚れるほど美しかった。
「執事さんって、良い人なんだな」
校舎へ向かう足取りでぼやくように言う俺と、そっぽを向く椿。
「でなければ、私の父が雇っていません」
目尻を下げて答える愛彩。
凄まじい説得力に俺は秒で納得してしまう。
「因みに聞いて良いのかわからないが、椿と執事さんって仲良いのか?」
「あら? ご紹介していませんでしたっけ?」
愛彩の問いに、俺は全力で首を横に振る。
「一応、東京に来た一日目から顔を合わせてはいるが……」
会話どころか、名前すら聞いたことがない。
「それは唯人さんと執事長に申し訳ないことをしてしまいましたね。彼は朱雀野桜寿さん。椿の従兄です」
「え。マジで!?」
何となく雰囲気は似ていると思っていたが、まさか椿の従兄だったとは。
俺が驚愕して椿を見ていると、大きなため息をついて話し始める。
「あいつとは腐れ縁のようなもので、歳は七つ離れてる。あの年齢で執事長を任せられていることだけは尊敬している。だが、私の中にあいつと同じ血が流れていると思うと悪寒が止まらない」
「そ、そこまでかよ……」
「あいつも私の裸を見ているからな。お前のように」
「……ッ!? そ、それはすまんかったって」
椿は軽蔑した目で俺を見る。
「唯人さんは本当に隅に置けない方です! 幼馴染の女の子を手玉に取るだけでなく、婚約者の従者にまで手を出すなんて……。それに、私まだ唯人さんに生まれたままの姿をお見せできておりません!」
隣で見ていた愛彩が頬を膨らませて横から入った。
「いや、見ねぇよ!?」
「いいえ。私達は婚約者同士なのですから、見せ合うべきです」
俺のツッコミに一歩も引かない愛彩。
そんな真剣な顔で言われても困るが。
「ということで、週末は空けておいてください。椿。あそこの手配、お願いできるかしら」
「かしこまりました、お嬢様」
俺の意向すら聞き出そうとしてもらえないまま、週末の予定が埋まってしまった。
今週中にバイトの求人を探そうと思っていたが、今日は金曜日。
来週までお預けのようだ。
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