第十一話
光恵学院は勉学のみならず、武芸の教育も盛んだ。
一般的な高校では選択科目になるであろう音楽、美術、工芸の芸術科目は全て必修科目になっている。
今も音楽の授業を終えて教室に向かう最中だ。
「っと、筆箱忘れた……」
踵を返して音楽室へ戻る。
音楽の授業でも筆箱が必要だと思っていたが、使う気配が無かったので机の下のスペースに入れっぱなしにしていた。
今度から、机の上に置いておこう。
音どころか空気すら漏れなさそうな防音ドアを力いっぱいに開けると、中に居る見知った少女――
東福寺華娜と目が合った。
凛々しい顔に、はね毛など一切ない纏まった黒い髪の美少女。
まさに、大和撫子を体現した女性と言っても過言ではない。
加えてピアノの東福寺で有名な、あの東福寺楽器のご令嬢だ。
学院内で知らない人物は居ないだろう。
俺は気付かないフリをしながら自分が座っていた席に近づき、机の中にある筆箱を速やかに回収する。
「忘れ物?」
唐突な問いかけに、体をビクッとさせてしまう。
麗しい黒髪を垂らしながら、筆箱を持つ俺の手を窺うように見ている。
「う、うん」
「ふーん」
垂れた髪をかきあげながら真っすぐ見つめられ、俺は咄嗟に目を逸らした。
「……私のこと、覚えてるよね?」
目をジトっとさせながら腕を組む華娜。
彼女の視線が戦国武将から解き放たれた矢の如く俺に突き刺さる。
彼女を避け続けることは無理そうだ、観念しよう。
「……覚えてるよ。久しぶり、華娜」
「久しぶり、華娜。じゃないわよ! 入学して、もう五日は経ってるのに!」
怒り出す華娜の目付きが更に鋭くなる。
華娜とは同じ浜松市内の小学校出身で、言わば幼馴染である。
家も近かったので一緒によく遊んだものだ。
こう見えても俺はオーボエという楽器が吹けるが、華娜の誘いを受けて小学校のブラスバンド愛好会に入らなければオーボエどころか音楽に触れる機会すら無かっただろう。
「入学初日だって、絶ッ対に私に気付いてたよね!? あー、自己紹介の時ね? それだけじゃない。あからさまに私を避けていたし。よそよそしいったら、ありゃしない」
華娜は何かを思い出した表情をしてから、少し落ち着いた様子で続ける。
「……そういえば、八ヶ崎さんと婚約したんだっけ」
ややこしい設定が今になって災いとなって降ってきた。
まあ、華娜には説明しても構わないだろう。
「そのことなんだけど――」
「やるじゃない! 唯人も隅に置けないなぁ」
「あ、いや。それね? 実は――」
「責任感が人一倍強くて志を高く保っていた唯人が魅力的だとは言え、まさか八ヶ崎グループの令嬢と婚約するなんて……。大したものだわ。旧知の友として誇らしい限りよ」
愛彩と言い、華娜と言い。
お嬢様って、こうも人の話を聞かないものなのか?
「華娜、一旦ストップ! 違くてさ」
「……? 何が違うの? 私、唯人のことは良く知っているけど」
「あ、あぁ。ありがとう。……じゃなくて! 婚約はしてないんだよ、俺」
「へ?」
らしくない、素っ頓狂な声を出す華娜。
「異性関係で苦労していることもあるらしくてさ。それで俺を婚約者ってことにしたんだ」
「……つまり、それは。…………唯人は八ヶ崎さんに利用されているということ?」
「あ、いや。そういう訳では」
「平たく言ってしまえば、八ヶ崎さんは眼中に無い男性からのアプローチを避ける為に唯人と婚約していると公に嘘をついている、ということよね?」
そうだよな。
この説明だと、そういう解釈になるよな。
これだと華娜の中で愛彩は悪役令嬢になってしまう。
「色々あってさ。今、八ヶ崎家で世話を見てもらっているんだ。そのお礼、っていうわけじゃないけど……。それに俺みたいな一般庶民が大企業の令嬢と結婚出来るわけないだろ? 相手は、あの八ヶ崎グループのお嬢様だぞ? 逆玉にも程がある」
「……ツッコミどころが満載だけど。少なくとも、唯人は八ヶ崎さんに利用されているわけではないの?」
「まさか! とんでもない!」
「じゃあ、唯人と八ヶ崎さんは、どういう関係?」
「…………。……」
居候、になるのだろうか。
正直なところ、わざわざ愛彩がクラスで婚約していると公表した真意は俺にもわからない。
少なくとも、利用されていると思ったことは一度もない。
むしろ、俺が利用しているというか。
家庭の事情で世話になっているのだ。
本当に情けない話である。
「俺は……。利用されてなんかいないし、むしろ八ヶ崎家に迷惑を掛けてしまっている立場でさ。話せば長くなるんだが……」
俺が言っていることの真偽を見定めるようにジッと見る華娜。
「……わかった。唯人がそう言うなら、信じる」
「た、助かる……」
安堵のため息をついた俺は、音楽室から出る為に出口へ向かう。
裾に何かが引っかかる。
見ると、華娜が俺の裾を掴んで離してくれない。
どうした、まだ何かあるのか。
「あ、あの……。ということは、唯人は誰とも婚約していないんだよね……?」
今までの態度と百八十度変わり、今度は華娜のほうがよそよそしい感じで話し掛ける。
さっきまでは一瞬たりとも目線が外れるどころか瞬きすらしていなかったが、今は頑なに目を合わせようとしてくれない。
「おう。誰とも婚約してない。なんなら、彼女も居ない」
「それは聞いてないから」
頬を紅潮させていた華娜は吹き出すように笑う。
「でも、そっかぁ。私、まだ負けてなかったんだ……」
俺が首を傾げると、次の授業を知らせる本鈴が優雅に鳴る。
「いけない! 授業が始まっちゃう!」
俺達は、音楽室から急いで出る。
「言っておくけど。この話は、まだ終わっていないから」
私は忘れないわよと言わんばかりの顔をする華娜。
「えっと。俺の、今後の婚約についてか?」
「違うわ! どうして八ヶ崎さんが嘘をついてまで唯人と婚約していると自己紹介で公表したのか。何故、唯人は八ヶ崎さんのお世話になっているのか。その他、諸々!」
どうやら、華娜への説明は逃れられそうにない。
その当人は授業に遅れそうだというのに、謎に上機嫌だ。
昔からそうだ。
何か俺が困っていると、勝手に助けて勝手に機嫌が良くなる。
廊下を走りながら、華娜が俺の手を思い切り引っ張り始めた。
「これからもよろしくね! 唯人!」
小学校時代の華娜の面影が重なり、俺は思わずため息を吐く。
嬉しいような、呆れるような。
自分でもわからない感情のため息。
「こちらこそ、改めてよろしくな。華娜」
華娜は太陽のような輝かしい笑顔で応えた。
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