第4話 見知らぬ二人
水たまりに映った顔から目をそらせずにいると、遠くで獣の唸り声がした。
一つではない。何かが茂みの向こうで動く気配。振り返る間もなく、黒い影が二つ、木々の隙間から飛び出してきた。
犬とも狼ともつかない、大きな獣。牙を剥き出しにして、まっすぐこちらに向かってくる。
足がすくんだ。逃げようにも、この小さな体では踏み出す一歩さえ遅い。
「動くな」
低い声が横合いから飛んできた。
次の瞬間、風を切る音とともに何かが影の間を走り抜け、獣たちが甲高い声をあげて茂みの奥へ引き返していった。
膝から力が抜けて、その場にへたり込む。
「大丈夫か」
旅装束に身を包んだ若い男が、声をかけてきた。腰には長い杖のようなものを提げている。足元には、灰色の毛をした猫のような生き物が、警戒するようにこちらを見上げていた。
「こんなところで一人か。見たことのない顔だな」
答えようにも、声が出てこなかった。震える手を見下ろす。子供の手。
「ひどく怯えているな。……歩けるか? とりあえず、火のそばまで来い。話はそれからでいい」
男はそれ以上何も聞かず、こちらの返事を待たずに歩き出した。猫のような生き物が、ちらとこちらを振り返り、ついてくるよう促すように鳴いた。
その背中を追いかけながら、私は自分の状況が何一つ飲み込めていないことに気づいていた。
慧はどこにいるのか。ライオンは。そして、私はどうしてこんな姿になっているのか。
聞きたいことは山ほどあったが、震える喉からは、結局何の言葉も出てこなかった。
焚き火は、思っていたよりずっと温かかった。
炎を挟んで向かいに座った男は、しばらく何も聞かずに、鍋の中身をかき混ぜていた。猫のような生き物は、いつの間にか私の膝のそばに丸まっている。
「名前は」
湯気の立つ、見たことのない色のスープの入った器を差し出され、ようやく口を開いた。
「――希」
とっさに、そう名乗っていた。慧という名前を口にする勇気が、まだなかった。
「希、か。おれはターレン。こいつはヒスイだ」
膝の上の生き物が、名前を呼ばれてぴくりと耳を動かした。
「見ない顔だな、この辺りじゃ。どこから来た」
「わからない……」
正直にそう答えるしかなかった。
「わからない、か」
ターレンは、それ以上追及しなかった。ただ静かにスープをすすり、火に薪を一本くべた。
「まあいい。わけありなのは、その顔を見ればわかる」
その言葉に、思わず顔を上げた。優しさとも突き放しともつかない、けれど確かに、こちらを急かそうとはしない声。
「わけがあるなら、話したくなったときに話せばいい。おれも、聞かれたくないことのひとつやふたつ、ある」
その一言に、なぜか少しだけ息がしやすくなった気がした。
スープをひと口飲む。体の芯から温まるような味だった。震えていた指先が、少しずつ落ち着いていく。
「……人を探してる。大切な、家族を」
気づけば、そう口にしていた。「息子」と言いかけて、慌てて飲み込んだ言葉だった。この姿で、そんなことを言えば、どんな顔をされるかわからない。
ターレンは驚いた様子も見せず、ただ小さくうなずいた。
「なら、おれの旅につきあうといい。どのみち、この森を一人で歩けるような装備はなさそうだ」
火の爆ぜる音だけが、しばらくの間、二人の間を満たしていた。




