第26話 朝、覚えていないこと
目を開けると、見慣れた天井があった。
自分の部屋のベッドの上だった。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。頬に、涙の乾いた感触が残っていた。
飛び起きて、廊下に出る。慧の部屋のドアを、勢いよく開けた。
「――慧」
ベッドの上に、慧がいた。眠っているだけの、いつもの朝の光景。それでも、確かめずにはいられなかった。
物音に気づいたのか、慧がゆっくりと目を開けた。寝ぼけた様子で、こちらを見上げる。
「母さん……? どうしたの、そんな顔して」
「ううん、なんでもない」
いつもと変わらない、気だるげな朝の声。慧の中に、あの夜のことが、どれだけ残っているのか、私には分からなかった。
「変な夢、見た気がする」
慧が、ぽつりと呟いた。
「どんな夢?」
「うまく思い出せない。……なんか、忘れちゃいけない気がしたんだけど」
そう言って、慧は頭を振ると、また布団に潜り込んでしまった。
私も、同じだった。この子が、自分の息子であることは、疑いようもなく分かる。慧という名前も、この家で一緒に暮らしてきたことも。それなのに、その関係を形づくってきたはずの、具体的な記憶だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
慧の生まれた日のこと。初めて名前を呼んでくれた瞬間のこと。手を繋いで歩いた、小さな歩幅のこと。思い出そうとしても、輪郭さえ掴めなかった。まるで、写真のアルバムから、一番大切な数ページだけが、誰かに抜き取られてしまったかのように。
それでも、胸の奥には、確かなものが残っていた。
この子を、大切に思う気持ちだけは、記憶のかたちを失っても、消えていなかった。
*
その日から、何かが劇的に変わったわけではなかった。
慧は、相変わらず、学校の話題になると口をつぐんだ。以前と同じように、部屋にこもる時間も多かった。
それでも、以前とは違うことが、一つだけあった。
「――学校、行かなくていいから」
夕食の席で、私がそう切り出したとき、慧は箸を止め、驚いたようにこちらを見た。
「本当に? 前は、行きなさいって、ずっと言ってたのに」
「うん。……色々あって、考えが変わったの」
うまく説明できる自信はなかった。異世界のこと、記憶を手放したこと、そんな話をしても、慧には届かないだろう。それでも、伝えたいことだけは、はっきりしていた。
「あなたがどうしたいか、これから、一緒に考えたい。急がなくていいから」
慧は、しばらく黙って、箸の先を見つめていた。何か言いたそうで、それでも、言葉が出てこない。
「……ありがとう」
短い一言だった。それだけでも、以前とは違う何かが、確かに動いた気がした。
夕暮れの光が、テーブルの上の湯呑みを、静かに温めていた。




