第24話 笑い声
その後、私たちは、慧の診療所で数日を過ごすことになった。
ターレンとヒスイも合流し、狭い診療所は、にわかに賑やかになった。ライオンは、すっかり元気を取り戻し、診療所の裏庭で、日向ぼっこをするようになっていた。
ある日、裏庭に、小さな笑い声が響くようになった。
近所の子供たちが、噂を聞きつけて集まってくるのだ。最初は恐る恐る、遠巻きに眺めるだけだった子供たちも、今ではすっかり慣れた様子で、金色のたてがみに抱きついている。
「先生の獣、すっごく大人しいね!」
「昔はもっと、辛そうにしてたのにな」
慧は、診療所の窓から、その光景を眺めていた。私も、隣に並んで、同じ景色を見ていた。
ライオンは、子供の一人にのしかかられても、迷惑そうな素振り一つ見せなかった。むしろ、大きな尻尾をゆっくりと振って、まるで一緒に遊んでいるかのようだった。
「こんな顔、するんですね」
「――ああ」
慧の声が、少し掠れていた。
「こいつが、あんなふうに笑ってるみたいな顔をするの、初めて見た」
その言葉に、胸の奥が、じんと熱くなった。
子供の一人が、ライオンの背中によじ登り、歓声を上げた。ライオンは、じっとその重みを受け止めながら、気持ちよさそうに目を細めている。
「元気になって、よかった」
慧が、ぽつりと呟いた。何かを噛みしめるような、静かな声だった。
「本当に」
私も、頷いた。記憶はなくても、胸がいっぱいだった。
夕暮れ時、子供たちが家路につく頃、ライオンは診療所の前で、しばらくその後ろ姿を見送っていた。金色の瞳に、優しい光が宿っていた。
その姿を見ながら、私はふと思った。
この獣が、こんなにも穏やかでいられる場所に、自分もいられることが、たまらなく嬉しいのだと。
それでも、この日々が、いつまでも続くわけではないことも、心のどこかで分かっていた。
診療所での穏やかな日々の中、ある夜、私はふと、慧に尋ねた。
「――そういえば、あなたはなぜ、ずっとこっちの世界にいたの? 帰ろうと思えば、帰れたんじゃ」
慧は、しばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「多分、帰り方が、分からなかったんだと思う」
「分からなかった?」
「うん。……こいつが、ずっと調子悪かっただろう」
慧は、そばで寝そべるライオンの背に、そっと手を置いた。
「今だから分かるけど、こいつは、多分、おれの心そのものなんだ。理由はうまく言えないけど、そう感じる」
胸の奥が、静かにざわめいた。理由は分からないのに、なぜか、すとんと腑に落ちる感覚があった。それでも、こうしてはっきり言葉にされると、違う重みを持って響いた。
「向こうの世界の記憶も、帰る道も、全部、こいつの中にあったんだと思う。だから、こいつが弱っている間は、おれも、何も思い出せなかった」
「――その間、あなたは、どんな気持ちで過ごしてたんですか」
想像するだけで、胸が締めつけられた。理由も分からないまま、それでも治さなければと、ただそれだけを頼りに生きてきた日々を。
「うん。理由も分からないまま、ただ、治さなきゃって、それだけがずっと頭にあった」
ライオンが、慧の手に、ゆっくりと額をすり寄せた。
「今は、違う。こいつが元気になった分だけ、色んなことを、少しずつ思い出せてる」
「じゃあ、私も」
言いかけて、はっとした。
自分がここにいられるのも、いつかは終わるのだと、初めて実感が伴った。
「多分な。こいつの調子が戻れば、繋がりも、元に戻る」
慧の声には、寂しさと、それでも譲れない何かが、同時ににじんでいた。
「――怖くないんですか。戻ったら、こっちのことを忘れるかもしれないのに」
「怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い」
それでも、と慧は続けた。
「こいつが元気になったのに、無理やり引き留めるのは、違う気がする。こいつがちゃんと役目を果たしたなら、ちゃんと、送り出してやりたい」
その言葉に、胸が熱くなった。かつて不器用だった少年が、今はこんなにも、誰かのために、自分の寂しさを飲み込める人になっている。
ライオンが、静かに目を閉じた。まるで、その言葉に頷くように。
その夜が、最後の夜になることを、私たちはまだ、はっきりとは知らなかった。




