第21話 わけもなく
ライオンの熱が完全に引いた、その日の夜。
診療所の裏庭で、ランは、ただ黙って、眠っているライオンを見つめていた。
「――ラン?」
声をかけたのは、ターレンだった。ランは、はっとしたように振り返った。その頬に、涙の跡があった。
「……なんでもない」
慌てたように、袖で顔を拭う。それでも、涙は、後から後から溢れてくる。
「悲しいことでも?」
「違う。むしろ、逆だ」
ランは、自分でも困惑したように、笑おうとして、失敗した。
「良くなって、嬉しいはずなのに。なんでか、涙が止まらない」
理由が分からない。そう漏らすランの言葉に、ターレンは、しばらく何も言えなかった。
このライオンが、ランにとって何なのか。この涙が、本当は何を意味しているのか。ターレンには、知りようもないことだった。それでも、何かとても大事なものに、今、立ち会っている気がした。
「――理由なんて、なくていいんじゃないか」
やっとのことで、それだけを言った。
「嬉しくて泣くことに、理由なんていらない。ただ、泣きたいから泣く。それでいいだろう」
ランは、しばらく黙って、ライオンの寝顔を見つめていた。
「――そうだな」
小さく、そう呟いた。
「そうかもな」
涙は、まだ止まっていなかった。それでも、ランの表情は、どこか晴れやかだった。まるで、長い間、閉じ込めていた何かが、ようやく外に出てきたかのように。
ライオンが、寝返りを打ちながら、小さく喉を鳴らした。安らかな寝息が、夜の静けさに溶けていく。
ターレンは、涙を拭うランの背中を、ただ静かに見つめていた。
その涙の意味を、ランはまだ知らない。それでも、いつか、きっと分かる日が来る。
そんな予感だけが、確かに、その場に満ちていた。
それから数日、ライオンの体温はすっかり元に戻り、以前のような力強さを取り戻していった。そんなある日、ランはふと、妙な感覚に襲われた。
――帰らなければ。
どこに、とは自分でも分からなかった。それでも、その感覚は、日に日に強くなっていった。まるで、長い眠りから覚めかけているような、そんな感覚だった。
「――お前、思い出したのか」
そばに控えていたターレンが、こちらの様子を見て、静かに尋ねた。
「いや。まだ、はっきりとは」
ランは、自分の手を見つめた。この手は、何かを――誰かを、待たせている気がしてならなかった。
「ただ、戻らなきゃいけない場所がある気がする。この子が元気になった、今なら」
ライオンが、ゆっくりと身を起こし、ランの肩に鼻先をこすりつけた。金色の瞳に、以前にはなかった、澄んだ光が宿っていた。
「希、か」
呟くと、胸の奥で何かが弾けた。あの、火を囲んで話した夜のことが、鮮やかに蘇る。不器用な自分の前で、なぜか自然に言葉が出てきた、あの相手。
「――会いに行かないと」
自分でも驚くほど、はっきりとそう思った。
ライオンが、待っていたかのように、診療所の窓の外を見つめた。ランは、その背に手をかけた。
「悪いが、しばらく留守にする」
「診療所は、こっちで見ておく。……行ってこい」
ターレンの言葉に、頷きを返す。ランは、ライオンの背によじ登った。かつて、慧という少年が、当たり前のようにそうしていたように。
夜空に、金色のたてがみが揺れる。ライオンが低く吼えると、体が淡く発光し始めた。
風を切る感覚と共に、診療所の屋根が、みるみる遠ざかっていく。目指す方角は、分からない。それでも、ライオンは迷わず、西の空へと駆けていった。
胸の中で、希という名前が、繰り返し響いていた。会えば、きっと、何か大切なことを思い出せる気がした。




