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第18話 手放す

 次は、私の番だった。


 震える手を、水に浸す。冷たさが、指先から腕へと広がっていく。

 目を閉じると、すぐに浮かんできた。慧の、生まれたばかりの重み。初めて名前を呼んでくれた日。抱っこをせがんで泣いた、小さな背中。

 そして、もっと最近の記憶も。何も話してくれなくなった、閉ざされたドア。それでも、時々見せてくれた、ふとした笑顔。


 手放したくない。


 その思いが、体の奥から突き上げてきた。


「――大丈夫かい」


 エルサの声が、遠くから聞こえた。

 大丈夫。そう答えたかったけれど、声が出なかった。

 水面に浮かぶ慧の顔を、私はただ、じっと見つめていた。

 手放したくない。その思いは、消えなかった。それでも、思い出した。ランの前で、初めて涙を流したときのことを。「弟がいて」と、初めて誰かに話せたときのことを。

 我慢して、我慢して、それが当たり前になっていた自分。気づかないうちに、慧にも、同じ我慢を強いていたのかもしれない自分。


 ――でも、と思う。


 思い出を失っても、私が慧を大切に思ったことそのものは、なくならない。エルサが、そう言っていたように。ターレンが、忘れてもなお、優しさを失わなかったように。

 だったら、渡せる。


「――ありがとう」


 声に出すと、驚くほど自然に、その言葉が出た。

 生まれた日の重みに、ありがとう。初めて名前を呼んでくれた声に、ありがとう。閉ざされたドアの向こうで、それでも確かにそこにいてくれたことに、ありがとう。


 水面の像が、ゆっくりと滲んでいく。光が、指先を通り抜けて、水の中へと吸い込まれていった。

 目を開けたとき、私は、自分が何を手放したのか、もう分からなくなっていた。


「――大丈夫かい」


 エルサの声に、顔を上げる。


「はい……多分」


 自分の返事が、どこか他人事のように聞こえた。隣を見ると、ターレンが心配そうな顔でこちらを見ていた。何かを失ったばかりの者同士、というような、奇妙な連帯感だけがあった。


「ヒスイ」


 その名前は、迷わず口から出た。膝のあたりに、灰色の毛をした生き物がすり寄ってくる。ターレンの妹。その関係だけは、はっきりと覚えていた。

 それなのに、自分がここで何を、誰のために取り戻そうとしていたのか――その中心にあったはずの記憶だけが、すっぽりと抜け落ちていた。


「二人とも、よくやったね」


 エルサが、机の上に、小さな瓶を二つ置いた。透き通った、金色の液体が満ちている。


「これが、万能薬だ。使い方は、もう分かっているね」


 ターレンが、瓶の一つを手に取り、大切そうに懐にしまった。


「おれは、東の町の医者のところへ行けばいいんだったな」


「はい。……お願いします」


 自分がなぜそこまで確信を持ってそう言えるのか、うまく説明できなかった。それでも、そうしなければならないと、体の奥底で分かっていた。

 私はもう一つの瓶を受け取り、膝の上のヒスイを見つめた。この子を助けなければならない。理由は思い出せないけれど、それだけは、揺るぎない事実として、胸の中にあった。


 エルサが、静かに私たちを見送りながら、小さく呟いた。


「――さあ、ここからだよ」


 家の外に出ると、日はもう傾きかけていた。


 道は、ここで二つに分かれている。私たちも、もうすぐ、それぞれの方向へ歩き出すことになる。

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