第17話 水面に映るもの
翌朝、エルサは、暖炉の前に、二つの小さな椀を並べた。中には、澄んだ水がなみなみと注がれている。
「これから話すことは、二度は言わない。よく聞きなさい」
「これに、それぞれの手を浸しなさい。水が、その者の一番大切な記憶を読み取る。あとは、心の中で、その記憶に別れを告げるだけでいい」
「別れを告げる、というのは……」
「言葉のとおりだよ。ちゃんと、ありがとうと言って、手放してやること。奪われるんじゃない。自分から、渡すんだ」
その違いが、どれほど重いものか、エルサの声を聞いて初めて分かった気がした。
先に手を浸したのは、ターレンだった。目を閉じ、しばらく動かなくなる。私は、その横顔をただ見守っていた。
やがて、水面が淡く光り始めた。光の中に、ぼんやりと像が浮かぶ。まだ幼い、ヒスイの姿。花畑を駆け回る、二人の子供。笑い合う声が、微かに聞こえた気がした。
ターレンの頬を、一筋、涙が伝った。
「――ありがとう」
小さく、そう呟いた瞬間、光が水面に吸い込まれるように消えていった。
椀の中の水は、もう何の像も映していなかった。ターレンは、しばらく目を開けなかった。開けたとき、その瞳は、どこか虚ろだった。
「ターレン?」
「……希か。すまん、少しぼうっとしてた」
そう言いながらも、その視線は、足元の生き物へと向けられていた。
「――こいつ、誰の猫だ?」
心臓が凍りついた。
ヒスイが、慌てたように駆け寄り、ターレンの手に頭をこすりつける。ターレンは戸惑ったように、その生き物を見下ろした。
「この猫が、なぜおれに懐いて……」
エルサが、静かにターレンの肩に手を置いた。
「大丈夫。体が、覚えている。心も、少しずつ、追いついてくる」
その言葉を信じるしかなかった。
戸惑うターレンの様子を見ながら、私はふと、気づいてしまった。
このままでは、ターレンはもう、ヒスイを見ても、それが自分の妹だと分からない。目の前にいるのに、気づけない。薬を渡そうにも、渡す相手を、認識できない。
「――エルサさん」
声が震えた。
「もし、私も同じように忘れてしまったら。慧を助けようとしても、目の前にいる慧に、気づけなくなるんじゃ……」
エルサは、静かにうなずいた。
「そうだね。だから、二人で行くんだろう」
その一言で、すべてが繋がった。
「私が薬を渡すのは、ヒスイに。ターレンさんが渡すのは、慧に」
顔を上げると、ターレンが――記憶をなくしたはずのターレンが、それでも困惑した表情で、こちらを見ていた。理由は分からなくても、何か大事な話をしていることだけは、伝わっているようだった。
「よく分からんが……おれで、役に立つなら」
その言葉に、少しだけ泣きそうになった。忘れてしまっても、優しさの形は変わらないのだと、証明してくれているようだった。




