第16話 覚悟
エルサの家を出てから、私たちはしばらく無言のまま、山道を下った。
「――思い出を、手放す」
ぽつりと、ターレンが呟いた。
「簡単に頷けることじゃないな」
私も、それ以上、言葉が出てこなかった。慧との思い出。それは、この十数年の私そのものだった。生まれた日の重み。初めて笑った顔。手を繋いで歩いた小さな歩幅。不登校になってから積み重なった、答えの出ない夜の数々。それら全部を、失うかもしれない。
「それでも」
足を止め、私は言った。
「それでも、私は行きます。慧を――ライオンを、助けたい」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚いた。怖くないわけではなかった。それでも、迷いはなかった。
ターレンが、こちらを見た。それから、小さく笑った。
「――なら、おれも覚悟を決めよう」
膝の上のヒスイを、そっと抱き上げる。
「お前を助けるためなら、忘れたって構わない」
短い一言だった。私は、初めて、少しだけ笑うことができた。
翌朝、私たちは再びエルサの家の戸を叩いた。
「――覚悟は、決まったようだね」
エルサは、私たちの顔を見るなり、そう言った。悲しむでも、止めるでもなく、ただ静かに、私たちを招き入れた。
「試練には、支度がいる。今日一日は、ゆっくり休みなさい。始めるのは、明日の朝だ」
その夜は、エルサの家に泊めてもらうことになった。
夕食の後、エルサが、お茶を淹れながら、ぽつりぽつりと話してくれた。
「あの人が、あたしのことを忘れてしまった日のことは、今でもよく覚えてる」
暖炉の炎を見つめながら、エルサは静かに続けた。
「目を覚ましたあの人は、あたしを見て、こう言ったんだよ。『あなたは、どなたですか』って」
その言葉の重さを、想像するだけで、胸が締めつけられた。
「悲しくなかった、と言えば嘘になる。でも、悲しんでる暇なんてなかった。あの人には、身の回りの世話をする人間が必要だったから」
「それで、そばに?」
「最初は、ただの世話係のつもりだったんだよ、きっと。あの人にとっては」
エルサは、少し寂しそうに笑った。
「でもね、不思議なもんで。毎日顔を合わせて、ご飯を作って、話しかけて。そうやって過ごすうちに、あの人、少しずつ、あたしに懐いてきたんだ。子供が、初めて会った大人に心を許すみたいにね」
「懐いて……」
「ある日、あの人が言ったんだよ。『あなたと話してると、なぜか安心する』って。記憶なんて何もないのに、そう言ったんだ」
エルサの目に、涙が浮かんでいた。それでも、その顔は、笑っていた。
「それから、少しずつ。一緒に畑を耕したり、雨の日に同じ屋根の下で過ごしたり。そうやって、新しい思い出を、一つずつ、積み重ねていった」
「もう一度、好きになってもらえたんですね」
「好きになってもらえた、というより」
エルサは、首を振った。
「もう一度、一から選んでもらえた、って感じかね。記憶があった頃のあたしじゃなくて、今のあたしを」
その言葉が、深く胸に残った。
「昔と同じ関係には、二度と戻れない。それは事実だよ。でも、前より悪くなったとも、あたしは思ってない」
暖炉の向こうで、老人が、静かな寝息を立てていた。エルサは、その横顔を、慈しむように見つめていた。
「ゆうべも、あの人、あたしの淹れたお茶を美味いって言ってくれたんだよ。何十年も前と、同じ台詞でね」
その言い方は、まるで昨日のことのように、懐かしそうだった。
その言葉を、私は、しばらくの間、静かに噛みしめていた。試練を明日に控えた今、その重みが、以前よりずっと切実に響いていた。




