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第12話 また困ることがあったら

 ヒスイが元通り走り回れるようになるまで、十日ほどかかった。


 その間、日に日に元気を取り戻していくヒスイの姿を見るのは、ささやかな喜びだった。最初は寝台から動けなかったのが、五日目には廊下を歩き、八日目には診療所の裏庭を駆け回るようになった。その変化を、ランは誰よりも静かに、それでいて誰よりも注意深く見守っていた。


 出立の朝、ターレンが荷物をまとめる横で、私はどうしても、ランに聞いておきたいことがあった。


「あの、ラン」


 薬棚の整理をしていた手が止まる。


「一緒に、来ませんか」


 自分でも、思いがけない言葉が口をついて出た。それでも、口にしてしまうと、それが本心なのだとよく分かった。この十日間で積み重ねたものを、ここで手放してしまうのが惜しかった。

 ランはしばらく黙っていた。窓の外、朝の光に目を細めるようにして。


「――正直、行きたい気持ちはある」


 低く、静かな声。


「でも、ここにはおれを待ってる患者がいる。今朝も、三人分の予約が入ってる」


「そう、ですよね」


 分かっていたはずの答えだった。それでも、胸の奥が小さく痛んだ。


「希」


 名を呼ばれて顔を上げる。ランは、いつもの不器用な笑い方をしていた。


「探している人に会えるといいな。もし――」


 そこで一度、言葉を切った。


「もし、この先、また困ることがあったら、ここに戻ってこい。いつでも、診てやる」


「……はい」


 それ以上、言葉が続かなかった。喉の奥が熱くて、何か言えば涙になりそうだった。

 ランは、そんな私の様子に気づいたのか、それ以上何も言わず、ただ静かに背を向けて、薬棚の整理を再開した。その不器用な気遣いが、かえって胸に染みた。


 ヒスイが、名残惜しそうにランの足元に体をすり寄せる。ランは腰をかがめて、その頭を一度だけ撫でた。


「元気でな。もう、無理はするなよ」


 その声は、いつもよりずっと優しかった。ヒスイが、答えるように小さく鳴いた。


「達者でな」


 短い別れだった。振り返らずに歩き出したのは、振り返れば、足が止まってしまいそうだったからだ。


 町を出て、街道に戻る頃には、診療所の白い扉はもう、木々の向こうに見えなくなっていた。


「――大丈夫か、希」


 隣を歩くターレンが、静かに聞いてきた。


「大丈夫、です」


 そう答えたものの、自分でも、何が大丈夫なのか分からなかった。ただ、胸の奥にできた小さな空白だけが、やけにはっきりと存在を主張していた。

 しばらく無言のまま歩いた。ヒスイが、心配そうにこちらを見上げては、時折、そっと足に体をすり寄せてきた。その温もりだけが、今の私を支えてくれているようだった。


「――また会えるといいな、あの医者に」


 ふと、ターレンがそう呟いた。


「うん」


 短く答えながら、私は、ランの不器用な笑い方を思い出していた。この胸の空白の正体を、まだ言葉にはできなかったけれど、いつかきっと、その意味が分かる日が来る。そんな気がしていた。

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