第10話 誰も見ていない優しさ
薬草を届けに、隣の集落まで使いを頼まれた。
「ランの使いです」と告げると、応対に出た女性の表情が、ぱっと明るくなった。
「ああ、あの先生の! いつもお世話になってて」
籠いっぱいの薬を受け取りながら、女性は堰を切ったように話し始めた。
「うちの子、去年、ひどい熱を出してね。近くの医者には匙を投げられて、藁にもすがる思いで先生のところに駆け込んだんだよ。そしたら、三日も寝ずに看てくれて」
「三日も、ですか」
「ええ。お金だってろくに受け取らないし。不器用な物言いをする人だけどね、根っこは誰よりも優しい人だよ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
帰り道、別の家でも、似たような話を聞いた。旅の途中で行き倒れていた老人を、自分の寝床を譲ってまで看病したという話。誰も診たがらなかった、伝染病を疑われた患者を、一人で最後まで診続けたという話。
「先生は、変わり者だけどね」
誰もが、そう前置きしてから、どこか誇らしげに話すのだった。
診療所に戻ると、ちょうど熱を出した子供が運ばれてきたところだった。ランは寝ぼけ眼のまま、手際よく診察を始める。
「はい、口開けて。……うん、扁桃腺が腫れてるな」
低い声とは裏腹に、その手つきはどこまでも優しかった。子供が怖がって泣き出すと、ランは困ったように眉を寄せ、それでも根気強く、優しい声で語りかけ続けた。
「もう少しだけ、我慢な。終わったら、飴やる」
「――飴なんて、置いてましたっけ」
小声で尋ねると、ランは気まずそうに視線を逸らした。
「……今から、希が買いに行け」
思わず笑ってしまった。子供も、つられたように、少しだけ泣き止んだ。
その様子を見ながら、あることに気づいた。ランは、子供を急かさなかった。泣き止むまで、ただ根気強く、待ち続けていた。
――私は、慧にこんなふうに、待ってあげられていただろうか。
学校に行けない理由を、いつも急いて聞き出そうとしていた自分を思い出す。急がば回れ、という言葉を、私は頭では分かっていても、実際にはできていなかったのかもしれない。
診察の合間、目をやると、ヒスイが、寝台の隅で丸くなっていた。まだ本調子ではないのか、動きは緩慢だったが、それでも、私たちの方をじっと見つめる目には、力が戻ってきているようだった。
「――大丈夫か」
ランが、寝台に近づき、そっとヒスイの首元に触れた。ヒスイが、小さく喉を鳴らす。
「もうすぐ、元通り走り回れるようになる」
その声には、医者としての確信と、それ以上の何か優しさが滲んでいた。
昼下がり、患者が途切れた合間に、二人で縁側に座って、遅い昼食を取った。
「今日も、ばたばたでしたね」
「いつものことだ」
「大変じゃないですか」
「大変だが」
ランは、少し間を置いてから、続けた。
「嫌いじゃない。誰かの役に立ってる実感が、ある」
その横顔を見ながら、私は、ふと思った。
不器用で、素っ気なくて、それでも誰かのために、身を粉にして働く人。今日聞いた村人たちの話も、目の前で見てきたことも、全部が同じ一人の人間を指していた。
「――希は、どうして、こんなに手伝ってくれるんだ」
「だって、放っておけないので」
「変な奴だな」
「よく言われます」
ランが、小さく笑った。つられて、私も笑った。
理由なんてない。ただ、この人のそばにいると、なぜか安心する。
――この人のことを、もっと知りたい。
そう思う自分に、まだ気づいていなかった。
夕暮れの光が、縁側に長い影を落としていた。何でもない、ただの一日。それなのに、この時間が、いつまでも続けばいいと、心のどこかで思っていた。
診療所の奥から、ヒスイの小さな寝息が、かすかに聞こえてきた。その静けさの中で、ランは、いつもより長く、薬棚の前に立ち続けていた。




