# 井枝尼理出亜 ## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた ### 第四話 海辺の工場――とどまれない者、守れない者
# 井枝尼理出亜
## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた
### 第四話 海辺の工場――とどまれない者、守れない者
#### 一 海辺へ
海は、何も知らない顔をしていた。
秋の風が港湾のクレーンを揺らし、工場の煙突から白い煙が流れていた。
一年ぶりだった。
私は、この海辺の工場へ戻ってきた。
いや、戻ってきたという言葉は正しくない。
私はここにとどまったことがなかった。
工場に。
組合に。
愛する者のそばに。
そして、自分自身の人生にさえ。
何かが始まるたび、私はそこへ向かった。
何かを守らなければならなくなると、私は離れていった。
逃げたのだろうか。
そう問われれば、否定する言葉をいくらでも並べることができた。
仕事があった。
生活があった。
責任があった。
身体がついていかなかった。
人間関係が複雑になった。
組織の力学に敗れた。
どれも嘘ではない。
だが、どれほど正しい理由を積み上げても、一つの事実は消えなかった。
**私は、とどまれなかった。**
そして、私が離れたあとにも、そこにとどまった人々がいた。
彼らは、私の守れなかった者を守った。
その事実だけが、何年たっても私の胸を刺し続けていた。
***
スマートフォンに《パンとワイン》の画面が浮かんだ。
**QUEST 04:失われた記憶の保持者を探せ**
**TARGET:若狭豪太**
私は工場の門を見上げた。
門の向こうで、作業服の男たちが行き交っている。
その一人が、こちらに気づいた。
角刈り。
広い肩。
日に焼けた顔。
若狭豪太だった。
「おう、久しぶりじゃねえか」
男は笑った。
「生きてたか」
私は頷いた。
「なんとか」
「なんとか、か」
豪太は私の顔をじっと見た。
「お前、また難しい顔してんな」
「そうかな」
「昔からそうだ。考えて、考えて、最後には動けなくなる」
胸の奥が痛んだ。
豪太は笑って、私の肩を叩いた。
「まあ、来たんなら入れよ」
私は門をくぐった。
ここから先へ進めば、また何かが始まる。
そんな予感がした。
けれど、その予感より強いものがあった。
ここから先へ進んでも、私はまた離れてしまうのではないか。
その恐れだった。
#### 二 守った男たち
休憩室には、古い掲示板があった。
労働安全。
賃金交渉。
雇用契約。
そして、かつての労働争議の写真。
私は一枚の写真の前で立ち止まった。
若い男たちが並んでいる。
その中に、豪太がいた。
大熊という女性がいた。
小橋という男がいた。
そして、もう一人。
穏やかな顔をした男がいた。
「岩本徹だ」
豪太が言った。
「覚えてるか」
私は写真を見つめた。
岩本徹。
かつて官公労の若手をまとめようとした男。
穏やかで、知識があり、人の話を聞くことのできる男。
しかし、闘争の途中で姿を消した。
「こいつはな」
豪太が言った。
「頭がよかったんだよ」
私は黙っていた。
「法律も制度も知ってた。税金も福祉も、政治も宗教もな。俺たちが分からねえことを、よく説明してくれた」
「そうだったね」
「だけどな」
豪太は写真を指さした。
「最後まで残れなかった」
私は顔を上げた。
「どうして」
「さあな。いろいろあったんだろうよ」
豪太は窓の外を見た。
「俺たちは、残った。それだけだ」
その言葉は、責めるものではなかった。
だからこそ、痛かった。
残った。
それだけ。
だが、その「それだけ」が、私にはできなかった。
***
大熊は、労働裁判を最後まで闘い抜いた。
小橋は、建設労働者たちの暮らしを支え続けた。
豪太は、工場と港湾の労働者をまとめ続けた。
彼らは決して完全な人間ではなかった。
間違えた。
怒鳴った。
人を傷つけた。
家庭を顧みられない日もあった。
それでも、必要なときにそこにいた。
私は彼らを尊敬していた。
いや、尊敬という言葉では足りなかった。
愛情さえ感じていた。
彼らが私の大切な者を守ってくれたからだ。
私が守れなかった者を。
けれど、感謝の底には、どうしても消えない問いがあった。
**彼らと私の、何が違ったのだろう。**
勇気か。
知恵か。
体力か。
実務能力か。
人間としての器か。
私は知識を集めた。
制度を学んだ。
歴史を読んだ。
聖書を読んだ。
『資本論』を読んだ。
しかし、知識は、守るべき時に必ずしも私を動かしてはくれなかった。
愛も同じだった。
誰よりも大切だと思っていた。
その気持ちに嘘はなかった。
けれど、愛しているという事実は、愛する者を守り抜いた証明にはならなかった。
#### 三 井枝尼理出亜の問い
休憩室を出ると、海風が吹いていた。
岸壁の向こうに、黒い髪の女が立っていた。
井枝尼理出亜。
彼女は海を見ていた。
私は近づいた。
「イエナ」
彼女は振り返らなかった。
「あなたは、彼らを羨ましいと思っているのね」
「そうだ」
「どうして?」
「彼らは守ったからだ」
「あなたは?」
「守れなかった」
「誰を?」
私は答えられなかった。
名前を口にすれば、その人をもう一度自分の物語に閉じ込めてしまう気がした。
イエナは静かに言った。
「あなたは、守れなかった人を、まだ愛しているの?」
「愛している」
「それとも、守れなかった自分を許せないの?」
私は黙った。
二つは違う。
分かっていた。
それなのに、私の中では長い間、区別できなかった。
「どちらもだ」
ようやく答えた。
イエナは私を見た。
「あなたは、その人が幸せなら、それでいいと思える?」
「思いたい」
「思いたい?」
「幸せであってほしい。心からそう思っている」
私は海を見た。
「でも、その幸せを守っているのが私ではないことが、苦しい」
イエナは何も言わなかった。
私は続けた。
「彼らを尊敬している。感謝している。彼らがいなければ、もっと多くのものが失われていた」
「それなのに?」
「自分がそこにいなかったことが、どうしても許せない」
遠くで汽笛が鳴った。
「私は、手に入れられなかった苦しみより、手に入れながら守り切れなかった苦しみの方が、深い罪だと思ってきた」
イエナは目を伏せた。
「罪、なのね」
「そうだ」
「誰が裁くの?」
「私が」
「守れなかった相手は、あなたを裁いているの?」
私は答えられなかった。
イエナは私の隣に立った。
「あなたは、自分を裁くことで、まだその人の人生に関わっていたいのかもしれない」
私は彼女を見た。
「それは、どういう意味だ」
「自分を罰し続ければ、終わらずに済むでしょう」
胸の奥で何かが軋んだ。
「終わらせたくないんだ」
私は言った。
「そうね」
「忘れたくない」
「そうね」
「守れなかったことを、なかったことにしたくない」
イエナは頷いた。
「でも、忘れないことと、自分を罰し続けることは、同じではないわ」
私は何も言えなかった。
#### 四 とどまれない者の愛
「イエナ」
「なに?」
「私は、どうしてとどまれないんだろう」
彼女はしばらく考えた。
「とどまりたい場所が、一つではないからかもしれない」
「それだけじゃない」
「ええ」
「怖いんだ」
初めて、その言葉が出た。
「とどまれば、責任が生まれる。誰かが私を頼る。私が間違えれば、その人が傷つく」
イエナは黙って聞いていた。
「だから私は、もっと勉強しようとした。もっと制度を理解しようとした。もっと強くなろうとした」
「それから?」
「準備しているうちに、守るべき時が過ぎてしまった」
私は拳を握った。
「準備が整った時には、もうその人はいなかった」
波が岸壁に当たった。
「私は、未来のために勉強していたつもりだった。でも、本当は、目の前の人を守ることから逃げていたのかもしれない」
イエナは首を横に振らなかった。
慰めなかった。
その沈黙がありがたかった。
「それでも」
彼女は言った。
「あなたが離れた理由を、全部臆病だったことにしてはいけないわ」
「なぜ?」
「人には限界があるから」
「限界を言い訳にしたくない」
「言い訳にすることと、認めることは違う」
イエナは私の手を取った。
その手は温かかった。
「あなたは、すべての場所にとどまることはできない」
「分かっている」
「すべての人を守ることもできない」
「分かっている」
「でも、分かっているだけでは、納得できないのね」
私は頷いた。
「そうだ」
「それなら、納得できないまま生きていくしかない」
私は彼女を見た。
「それが答えなのか」
「答えではないわ」
イエナは微笑んだ。
「私たちは、まだ物語の途中にいるのだから」
#### 五 戦闘モード
突然、スマートフォンが震えた。
《パンとワイン》
**MODE CHANGE**
**恋愛モードを一時停止します。**
**戦闘モードを開始します。**
岸壁の風景が変わった。
クレーンが巨大な鉄の塔になり、倉庫の壁には数字が浮かんだ。
労働時間。
賃金。
利益。
契約期間。
労働災害。
解雇。
数字が空中で絡み合い、巨大な網となって工場を覆った。
イエナの服が変わった。
長い髪を結い、黒い鎧をまとった。
腰には剣。
だが、彼女は抜かなかった。
「戦わないのか」
私は尋ねた。
「戦うわ」
「剣は?」
「今日は使わない」
イエナは倉庫を指さした。
「ここにいる人たちの問題を見て」
画面に、新しいクエストが表示された。
**《労働者の契約更新》**
期限まで、あと三日。
契約更新を拒否されそうな労働者がいた。
家族を養っている。
病気の親がいる。
住宅ローンが残っている。
労働組合に相談したいが、職場で孤立することを恐れていた。
私は画面を見た。
選択肢が現れた。
**A 制度を調べる**
**B 豪太に相談する**
**C 本人の話を聞く**
**D 自分が解決する**
私は迷った。
以前なら、Aを選んだだろう。
制度を調べる。
法律を読む。
判例を探す。
正確な答えを得る。
だが、その間にも三日は過ぎていく。
私はCを選んだ。
**本人の話を聞く。**
画面が変わった。
**《残り時間:72時間》**
私はイエナを見た。
「時間が足りない」
「そうね」
「全部は調べられない」
「そうね」
「間違えるかもしれない」
「そうね」
「それでも、動くのか」
イエナは答えた。
「一人で守ろうとしなくていい」
次の選択肢が現れた。
**《相談できる仲間を選んでください》**
若狭豪太。
大熊。
小橋。
そして、岩本徹。
最後の名前だけが灰色になっていた。
**《この人物は戦線を離脱しています》**
私は、その文字を見つめた。
豪太が隣に立っていた。
「お前、まだ全部自分で背負おうとしてんのか」
私は顔を上げた。
「俺たちがいるだろう」
彼は笑った。
「お前ができないことは、俺たちがやる。俺たちが分からねえことは、お前が教えろ」
「でも、私は以前……」
「昔の話は、今度にしろ」
豪太は時計を見た。
「三日しかねえんだろ」
私は初めて、画面の中の自分が動き出すのを感じた。
制度を調べる。
本人の話を聞く。
仲間につなぐ。
必要な記録を残す。
一つずつ。
すべてを解決できるわけではない。
それでも、誰かが一人で立ち尽くす時間を、少し減らすことはできる。
**MANA:1 → 12**
画面に文字が浮かんだ。
**《守るとは、すべてを引き受けることではありません》**
#### 六 守れなかった者の名前
夕方、工場を出た。
海の向こうに、赤い夕日が沈んでいた。
イエナは再び、いつもの黒い服に戻っていた。
「少しは分かった?」
彼女が尋ねた。
「何が?」
「守ること」
私は首を振った。
「まだ分からない」
「そう」
「今日、一人の話を聞けたとしても、昔のことは変わらない」
「ええ」
「守れなかった人は戻らない」
「ええ」
「離れた時間は埋められない」
イエナは私の隣を歩いた。
「それでも、今日の人を守ろうとしたことには意味があるわ」
「過去の償いにはならない」
「償いにしなくていい」
私は立ち止まった。
「償いにしなくていい?」
「今日出会った人は、あなたの過去を償うために生きているのではないでしょう」
私は黙った。
その通りだった。
誰かを助けることを、自分の罪を軽くするための手段にしてはならない。
私はその当たり前のことを、見失いかけていた。
「イエナ」
「なに?」
「私は、まだあの人に会いたい」
「ええ」
「もう一度、そばにいたい」
「ええ」
「今度こそ守りたい」
イエナは私を見つめた。
「その人は、あなたに守られたいと思っているの?」
私は答えられなかった。
「分からない」
「それなら、まず、その人の願いを知らなければならないわ」
「会えなかったら?」
「会えなくても、その人の人生を尊重することはできる」
私は海を見た。
「それは、あまりにも寂しい」
イエナは静かに頷いた。
「そうね」
「耐えられないかもしれない」
「そうね」
「それでも?」
「それでも、愛することはできるわ」
私は彼女の手を握った。
彼女は握り返した。
その温かさが、かえって苦しかった。
この手も、いつか離れるのだろうか。
私が離すのか。
彼女が消えるのか。
あるいは、記憶だけが残るのか。
私は尋ねた。
「イエナ、君は私のそばにいてくれるのか」
彼女はすぐには答えなかった。
「私は、あなたが望むときに必ず現れるとは限らない」
「なぜ?」
「私にも、私の物語があるから」
私は目を伏せた。
また、とどまれない。
また、守れない。
そう思った。
だが、彼女は続けた。
「それでも、会えたときには、ちゃんと会いましょう」
私は顔を上げた。
「会えない時間まで、私を所有しようとしないで」
「分かった」
「そして、あなた自身の人生から離れないで」
その言葉が、何より痛かった。
私は他人のそばにとどまれなかった。
けれど、それ以前に。
自分の人生にさえ、とどまることができなかったのかもしれない。
#### 七 守るべき時
夜になった。
工場の灯が、海沿いに連なっていた。
私は駅へ向かって歩いた。
スマートフォンが震えた。
《パンとワイン》
**QUEST 04 COMPLETE**
**失われた記憶の断片を取得しました。**
画面に、古い映像が現れた。
若い男がいた。
穏やかな顔。
細い肩。
少し疲れた目。
岩本徹だった。
彼は誰かに向かって言っていた。
「もう少し準備ができたら、戻ります」
画面が切り替わった。
季節が過ぎた。
春。
夏。
秋。
冬。
彼は本を読んでいた。
制度を調べていた。
文章を書いていた。
資格の勉強をしていた。
誰かの役に立つために。
いつか戻るために。
だが、その間にも、人々の暮らしは進んでいた。
子どもは成長した。
若者は職場を去った。
病気の人は年を取った。
愛した人は、別の人生を歩き始めた。
そして、彼の帰りを待たずに、誰かがそこに立った。
豪太だった。
大熊だった。
小橋だった。
彼らは、完全な準備などしなかった。
間違いながら、そこにいた。
画面の中の岩本徹が、顔を覆った。
私はその姿を見つめた。
彼は私だった。
あるいは、私が描いた、もう一人の私だった。
そのとき、映像の中に井枝尼理出亜が現れた。
彼女は岩本の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、いつまで自分を裁き続けるの?」
岩本は答えなかった。
「守れなかった人を、忘れなくていい」
彼女は言った。
「でも、守れなかった過去の中に、あなた自身まで閉じ込めないで」
岩本は顔を上げた。
「今さら、何ができる」
イエナは手を差し出した。
「今、目の前にいる人の話を聞くこと」
「それだけか」
「それだけではないわ」
彼女は微笑んだ。
「そこから、また始めるの」
映像が消えた。
私は駅のホームに立っていた。
電車が近づいてきた。
スマートフォンに、最後のメッセージが表示された。
**《NEXT QUEST》**
**井戸の底へ向かえ。**
**そこには、あなたが置き去りにした記憶があります。**
私は画面を閉じた。
電車の窓に、自分の顔が映っていた。
疲れた顔だった。
それでも、私は電車に乗った。
今日も、とどまることはできなかった。
海辺の工場を離れ、また別の場所へ向かっていた。
けれど、以前とは少し違っていた。
離れることが、必ずしも見捨てることではない。
とどまることが、必ずしも守ることではない。
そして、守れなかった事実を抱えたままでも、次の誰かのそばに立つことはできる。
そう思いたかった。
まだ、信じ切ることはできなかった。
**私は、守れなかった。**
その言葉は消えない。
おそらく、一生消えない。
けれど。
**私は、今度こそ守るべき時に、そこにいたい。**
その願いだけは、失いたくなかった。
電車が走り始めた。
窓の向こうで、工場の灯が遠ざかっていく。
私は、もう一度だけ振り返った。
海辺の暗闇に、黒い髪の女が立っていた。
井枝尼理出亜。
彼女は追いかけてこなかった。
ただ、そこに立っていた。
まるで、私が離れたあとにも、世界は続いていくのだと教えるように。
そして私は、初めて思った。
**彼女を愛することと、彼女を守ることは、同じではない。**
まして、彼女を手に入れることでもない。
私が本当になりたかったのは、彼女を所有する男ではなかった。
彼女が危機に陥ったとき、逃げずにそばに立てる人間だった。
それだけだった。
だが、その「それだけ」が、私にはあまりにも遠かった。
電車は夜の町へ入っていった。
井戸の底で、何かが私を待っていた。
――第四話・完――
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### 次回 第五話「井戸の底――失われた者たちの声」
井戸の底には、守れなかった者たちの声が沈んでいる。
そこに現れるのは、かつて愛した人々、別れた人々、そして自分自身の分身。
井枝尼理出亜は問いかける。
「あなたは、失った人を取り戻したいの。それとも、失う前の自分に戻りたいの?」
井戸の底から、物語はさらに深くなる。




