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# 井枝尼理出亜 ## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた ### 第三話 聖書と資本論と、鍵のかかった木箱

# 井枝尼理出亜

## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた


### 第三話 聖書と資本論と、鍵のかかった木箱


その施設は、海の見える丘の上にあった。


駅からバスで三十分。


そこからさらに、古い坂道を歩く。


石垣の間から雑草が伸び、坂の途中には小さな教会があった。


私はスマートフォンを確かめた。


《パンとワイン》


**QUEST 03:井枝尼理出亜の出生を確認せよ。**


画面には施設の名前と、古い写真が表示されていた。


写真には、十数人の子どもたちが並んでいる。


その一番端に、一人の少女がいた。


黒い髪。


細い身体。


こちらを見つめる瞳。


イエナだった。


いや、そう思っただけかもしれない。


私はその少女の顔を拡大した。


すると、画面が突然暗くなった。


**《この記憶にアクセスする権限がありません》**


「記憶?」


私は呟いた。


ゲームの記録ではないのか。


誰の記憶だというのだろう。


***


施設の門は開いていた。


古い木造の建物だった。


庭には柿の木があり、洗濯物が風に揺れていた。


玄関で声をかけると、白髪の女性が出てきた。


「どちらさまでしょう」


私は事情を説明した。


井枝尼理出亜という女性を探していること。


この施設で育ったらしいこと。


そして、彼女が残された三つの品物について知りたいこと。


女性はしばらく私の顔を見ていた。


「理出亜を、ご存じなんですか」


「いえ。会ったのかどうかも、分からないんです」


「不思議な言い方をなさるのね」


女性は小さく笑った。


「でも、あの子のことを尋ねてくる人は、みんなそう言います」


私は顔を上げた。


「ほかにも来たんですか」


「ええ。ずいぶん前から」


女性は廊下の奥へ歩き始めた。


「こちらへどうぞ」


***


応接室には古い本棚があった。


絵本。


児童文学。


百科事典。


そして聖書。


女性は自分を、この施設の元職員だと紹介した。


「理出亜は、ここで育ちました」


「両親は?」


「詳しいことは分かりません」


彼女は言葉を選んだ。


「小さな女の子でした。ほとんど何も話さなかった」


「何歳くらいですか」


「五歳か、六歳だったと思います」


「名前は最初から?」


「ええ。井枝尼理出亜。それだけは、はっきり言えました」


女性は立ち上がり、古い棚から一冊のアルバムを取り出した。


ページを開く。


運動会。


クリスマス。


遠足。


誕生日。


その中に、少女がいた。


ほかの子どもたちが笑っている写真でも、彼女だけは遠くを見ていた。


「寂しそうですね」


私が言うと、女性は首を横に振った。


「寂しかったと思います。でも、寂しそうに見えることと、寂しいことは違うでしょう」


私は黙った。


「理出亜は、よく人を見ていました」


女性は続けた。


「泣いている子がいると、近くに座っていました。慰めるわけでもない。ただ、そこにいるんです」


「優しい子だったんですね」


「優しいというより……怒っていたのかもしれません」


「怒っていた?」


「誰かが泣かなければならないことに」


***


少女には三つの形見が残されていた。


ぼろぼろの聖書。


使い込まれた『資本論』。


そして鍵のかかった木箱。


「子どもには難しい本ですね」


「そうですね。でも、理出亜は両方とも大切にしていました」


女性は古い記録を開いた。


「聖書の中には、たくさんの書き込みがあったそうです」


「どんな?」


「貧しい人、飢えた人、虐げられた人についての箇所です」


「資本論には?」


「労働時間、賃金、搾取。それから、商品について」


私は思わず笑いそうになった。


五歳か六歳の少女に、そんな本が分かるはずはない。


けれど、笑えなかった。


女性が続けたからだ。


「理出亜は、いつも同じことを聞いていました」


「何を?」


「どうして、パンを作る人がパンを食べられないのか」


窓の外で、子どもたちの声がした。


「どうして、家を建てる人が家を持てないのか」


女性はアルバムを閉じた。


「どうして、誰かを守るために作ったはずの制度が、誰かを苦しめるのか」


私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


それは、私自身が長い間考えてきた問いだった。


***


「木箱は、まだあるんですか」


女性の表情が変わった。


「なぜ、それを?」


「ゲームに書いてありました」


「ゲーム?」


説明しようとして、私はやめた。


信じてもらえるとは思えなかった。


しかし女性は、意外なことを言った。


「あの子も、よくゲームをしていました」


「どんなゲームですか」


「パンとワイン、という名前でした」


私は椅子から立ち上がりかけた。


「本当ですか」


「ええ。ただ、普通のゲームではなかったようです」


女性は窓の方を見た。


「理出亜は、ゲームの中でいろいろな人と話していました」


「オンラインゲームですか」


「そのころの私は、よく分かりませんでした」


「誰と話していたんでしょう」


「工場で働く人、学校の先生、病院の人、外国の人……」


女性は少し考えた。


「そして、ときどき、まだ生まれていない人とも話していると言っていました」


私は言葉を失った。


「まだ生まれていない?」


「ええ。未来から来る人たちだと」


その瞬間、スマートフォンが震えた。


**《新しい記憶が見つかりました》**


画面に少女が映った。


暗い部屋。


古い机。


その上に二冊の本。


そして木箱。


少女は木箱を抱きしめていた。


誰かの声が聞こえた。


「理出亜、それは何?」


少女は答えた。


「まだ開けてはいけないもの」


「どうして?」


「開けると、みんなが出てきてしまうから」


画面が途切れた。


***


女性は私を古い礼拝室へ案内した。


施設の一角にある、小さな部屋だった。


木の椅子。


十字架。


ステンドグラス。


午後の光が床に落ちていた。


「理出亜は、よくここにいました」


「祈っていたんですか」


「いいえ」


女性は微笑んだ。


「神様と喧嘩していたんです」


私は思わず聞き返した。


「喧嘩?」


「どうして、子どもを見捨てるのか。どうして戦争を止めないのか。どうして病気の人を治さないのか」


女性は十字架を見上げた。


「ずっと問いかけていました」


「神様は答えたんでしょうか」


「さあ。でも、ある日、理出亜はこう言いました」


女性は私を見た。


「神様が答えないなら、私が行く」


私は何も言えなかった。


「だから、あの子はどこへでも行こうとしたんでしょうね」


工場へ。


学校へ。


病院へ。


裁判所へ。


教会へ。


そして、誰も知らないゲームの世界へ。


私は、これまでに見たイエナたちの姿を思い出した。


彼女たちは一人の女性を真似ていたのだろうか。


それとも。


一人の女性が、何人もの人間の人生を生きているのだろうか。


***


「木箱を見せていただけませんか」


女性は長い間、黙っていた。


やがて礼拝室の奥の戸棚を開けた。


古い布に包まれた、小さな木箱が出てきた。


黒ずんだ木。


錆びた金具。


鍵穴。


「これです」


私は箱を受け取った。


驚くほど軽かった。


「鍵は?」


「ありません」


「一度も開けていないんですか」


「私の知る限りでは」


私は箱の表面を見た。


何かが刻まれていた。


かすれた文字。


**IENA**


その下に、もう一つ。


**REDIA**


そして小さな文字で、


**PANIS ET VINUM**


パンとワイン。


私は息を呑んだ。


箱の底には、さらに文字があった。


**《愛する者を所有してはならない》**


なぜ、こんな言葉が刻まれているのだろう。


そのとき、箱の中から音がした。


かすかな金属音。


私は箱を揺らした。


もう一度、音がした。


鍵ではない。


もっと小さなもの。


まるで時計の針が動いているようだった。


スマートフォンが震えた。


**《QUEST 03 COMPLETE》**


**出生記録:未確認**


**記憶断片:取得**


**木箱:発見**


続いて、新しいメッセージが現れた。


**《警告》**


**この箱には、井枝尼理出亜の記憶が保存されています。**


**ただし、すべてではありません。**


私は画面を見つめた。


さらに文字が続いた。


**《失われた記憶は、ほかの井枝尼理出亜が保持しています》**


***


「この箱を持って帰っても?」


私が尋ねると、女性は首を振った。


「それは、理出亜のものです」


私は箱を返した。


「そうですね」


「でも」


女性は私の手を見た。


「あなたには、もう渡されているものがあるようですね」


「何を?」


「問いです」


私は苦笑した。


「問いだけでは、何もできません」


「本当に?」


女性は静かに言った。


「理出亜は、問いを持って出ていきました。そして、いろいろな人に会ったんです」


私は木箱を見つめた。


答えを得ること。


誰かを見つけること。


誰かに愛されること。


そればかりを求めてきたのかもしれない。


けれど、イエナは違った。


彼女は答えを持たずに歩き出した。


神を疑いながら。


資本を憎みながら。


人を愛することを恐れながら。


それでも、人のいる場所へ。


***


施設を出ると、夕暮れだった。


海の向こうに、赤い光が沈んでいく。


私は坂道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。


新しいメッセージが届いていた。


差出人は、井枝尼理出亜。


**「私を探してくれて、ありがとう」**


私は立ち止まった。


続いて、もう一通。


**「でも、私を探すだけでは、私には会えません」**


私は返信した。


「どうすれば会える?」


しばらくして、返事が来た。


**「私が守れなかった人を、あなたは守れますか」**


胸が痛んだ。


なぜだろう。


その言葉を、私は以前にも聞いた気がした。


いや。


聞いたのではない。


自分自身に、何度も問いかけてきた言葉だった。


守れなかった人。


離れてしまった人。


失った人。


愛しながら、最後までそばにいられなかった人。


私は画面に文字を打った。


「今度こそ、守りたい」


送信。


既読がついた。


しかし返事は来なかった。


代わりに、画面が切り替わった。


**《QUEST 04》**


**海辺の工場へ向かえ。**


**失われた記憶の保持者を探せ。**


**TARGET:若狭豪太**


その名前を見た瞬間、私は足を止めた。


知らないはずの名前だった。


それなのに、懐かしかった。


遠くから、工場の汽笛が聞こえた。


海風が吹いた。


そして、耳元で女の声がした。


「あなたは、まだ分かっていない」


振り返る。


誰もいない。


「私は、あなたが描いた女ではない」


声だけが続いた。


「あなたが描くより前から、私はここにいた」


私は海を見た。


沈みかけた太陽が、水面を赤く染めていた。


**「そして、あなたも私の物語の中にいる」**


スマートフォンの画面が暗くなった。


その黒い画面に、私自身の顔が映っていた。


だが、その背後には。


長い黒髪の女が立っていた。


彼女は微笑んでいた。


次の瞬間、画面に一行だけ表示された。


**《恋愛モード継続中》**


――第三話・完――


### 次回予告 第四話「海辺の工場――守れなかった者たち」


若狭豪太。港湾労働者。労働組合。そして、かつて誰かを守ろうとして戦線を離れた男。


井枝尼理出亜の過去を追う旅は、語り手自身が封じてきた記憶へと近づいていく。


戦闘モードと恋愛モードが交錯するとき、剣を振るうよりも難しい選択が待っている。


**「手に入れられなかった苦しみと、手に入れながら守り切れなかった苦しみ。どちらが深い罪なのか」**

### 次回予告 第四話「海辺の工場――守れなかった者たち」


若狭豪太。港湾労働者。労働組合。そして、かつて誰かを守ろうとして戦線を離れた男。


井枝尼理出亜の過去を追う旅は、語り手自身が封じてきた記憶へと近づいていく。


戦闘モードと恋愛モードが交錯するとき、剣を振るうよりも難しい選択が待っている。


**「手に入れられなかった苦しみと、手に入れながら守り切れなかった苦しみ。どちらが深い罪なのか」**

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