# 第二話 帝都芸術劇場――パンとワイン
帝都芸術劇場。
その名前を、私は知っていた。
だが、そんな劇場がこの街に存在した記憶はない。
スマートフォンの地図で検索しても出てこなかった。
それなのに翌朝、ポストを開けると、一枚のチケットが入っていた。
**帝都芸術劇場
吉満たか子 ピアノリサイタル**
演目。
**J.S.バッハ
平均律クラヴィーア曲集**
そして座席番号の代わりに、
**PLAYER**
とだけ印刷されていた。
差出人はいない。
私は昨夜の画面を思い出した。
《パンとワイン》
帝都芸術劇場。
その名前を、私は知っていた。
だが、そんな劇場がこの街に存在した記憶はない。
スマートフォンの地図で検索しても出てこなかった。
それなのに翌朝、ポストを開けると、一枚のチケットが入っていた。
**帝都芸術劇場
吉満たか子 ピアノリサイタル**
演目。
**J.S.バッハ
平均律クラヴィーア曲集**
そして座席番号の代わりに、
**PLAYER**
とだけ印刷されていた。
差出人はいない。
私は昨夜の画面を思い出した。
《パンとワイン》
音ゲーモード。
戦闘モード。
恋愛モード。
そして、窓の向こうに立っていた女。
井枝尼理出亜。
私はチケットを捨てようとした。
だが、できなかった。
その日の夕方、私は電車に乗っていた。
***
指定された駅で降りた。
何度も来たことのある街のはずなのに、一本裏道へ入った途端、知らない街になった。
古い喫茶店。
閉じた映画館。
教会。
雑居ビル。
そして、その先に劇場があった。
石造りの巨大な建物だった。
入口の上に金色の文字が浮かんでいる。
**TEITO ART THEATRE**
係員にチケットを見せる。
何も言わず通された。
「座席は?」
尋ねても返事はなかった。
代わりに指さされたのは、客席とは反対方向だった。
**関係者以外立入禁止**
と書かれた廊下。
私は立ち止まった。
「こちらです」
初めて係員が口を開いた。
「吉満先生がお待ちです」
「吉満?」
「吉満たか子先生です」
知らない。
少なくとも、会った記憶はない。
それでも私は廊下を歩いた。
楽屋の前で、ピアノの音が聞こえた。
バッハ。
昨夜、窓の外から聞こえてきた旋律だった。
扉には、
**吉満たか子**
その下に小さく、
**IENA RIDEA**
と書かれていた。
私は扉を開けた。
誰もいない。
鏡。
化粧台。
黒いドレス。
楽譜。
そして机の上に、一台のノートパソコン。
画面には例の文字が出ていた。
**《パンとワイン》**
私は近づいた。
画面が切り替わる。
**WELCOME BACK**
「戻ってない」
思わず呟いた。
初めて来た。
そのはずだ。
だがゲームは私を知っていた。
**PLAYER DATA LOADED**
そして三つの選択肢。
**音ゲーモード**
**戦闘モード**
**恋愛モード**
私は迷った。
昨夜は選ばなかった。
だから今度は選ぶ。
最も危険が少なそうなものを――。
音ゲーモードに指を伸ばした。
その瞬間。
画面の中で誰かが笑った。
「そっちを選ぶと思った」
女の声。
振り向く。
誰もいない。
「誰だ」
返事はない。
画面を見る。
選択肢が勝手に動いた。
**戦闘モード**
「待て」
クリック。
私は押していない。
暗転。
次の瞬間、画面いっぱいに港が広がった。
夜。
コンテナ。
巨大なクレーン。
倉庫。
海。
画面中央に一人の女が立っている。
長い髪を結っていた。
昨日とは違う。
ドレスでもない。
黒い戦闘服。
腰に剣。
**CHARACTER:IENA RIDEA**
その下。
**MANA:0**
そして、
**QUEST
港湾地区に入り、失われたパンを取り戻せ。**
「パン?」
ゲームとしては奇妙な目的だった。
敵を倒せ。
城を落とせ。
世界を救え。
普通なら、そうなる。
しかし、このゲームは違った。
パンを取り戻せ。
イエナが歩き始める。
私は操作していない。
倉庫の前に、大勢の人間がいた。
作業服。
ヘルメット。
トラック。
フォークリフト。
怒鳴り声。
その中をイエナは歩いていく。
誰も彼女を止めない。
いや。
誰にも見えていないようだった。
倉庫の奥。
大量の段ボール箱。
食品。
野菜。
米。
パン。
その一方で、画面の端に数字が表示される。
**廃棄予定数量**
数字が増えていく。
イエナが言った。
「食べる人がいるのに」
初めて、彼女の声を聞いた。
「なぜ捨てるの?」
画面が停止した。
選択肢。
**A 制度だから**
**B 利益にならないから**
**C 仕方がない**
**D 分からない**
私は考えた。
正解を探した。
しかし、どれも正解ではない気がした。
そこで気づいた。
これは戦闘ゲームではない。
少なくとも、敵を倒せば終わるゲームではない。
制度。
会社。
契約。
価格。
物流。
消費。
そして、人間。
敵が一人ではない。
だから剣を振るう相手もいない。
私は、
**D 分からない**
を選んだ。
しばらく沈黙したあと、イエナが笑った。
「そう。それでいい」
こちらを見た。
画面の向こうから、まっすぐ私を見ている。
「分からないところから始めましょう」
MANAの数字が変わった。
**0 → 1**
たった一ポイント。
そのときだった。
楽屋の扉が開いた。
私は振り返った。
女が立っていた。
黒いドレス。
長い黒髪。
「あなた……」
昨日の女?
違う。
似ている。
けれど違う。
女は私を見て、不思議そうな顔をした。
「どなたですか?」
「井枝尼理出亜……?」
女は眉をひそめた。
そして笑った。
「違います」
バッグを椅子に置いた。
「吉満たか子です」
この楽屋の主。
今日のピアニスト。
彼女はパソコンを見る。
一瞬だけ、その表情が止まった。
「これを、起動したんですか」
「知っているんですか?」
答えない。
代わりにパソコンを閉じた。
「帰った方がいい」
「井枝尼理出亜を知っていますか」
沈黙。
「昨日、彼女を見ました」
吉満の手が止まった。
「どこで?」
私は窓の外を指した。
「私の家の前です」
「それはイエナじゃない」
即答だった。
「どうして分かる?」
吉満は私を見た。
「イエナは、一人じゃないから」
背筋が冷たくなった。
「どういう意味ですか」
開演を知らせるベルが鳴った。
吉満は答えない。
黒いドレスの裾を整え、楽屋を出ようとする。
扉の前で振り返った。
「演奏、聴いていきますか?」
「その前に教えてください」
「何を?」
「井枝尼理出亜とは、誰なんですか」
吉満は少し考えた。
「それを知りたいなら――」
彼女は私の手からチケットを取った。
裏返した。
そこには、さっきまでなかった文字があった。
**QUEST 02**
**井枝尼理出亜の出生を確認せよ。**
そして、その下。
**児童養護施設**
**形見――聖書、『資本論』、鍵のかかった木箱。**
私は顔を上げた。
「孤児院?」
「彼女はそこで育った」
「実在するんですか」
吉満は答えなかった。
舞台へ向かって歩き始める。
「待ってください」
追いかけようとした。
だが、彼女は一度だけ振り返った。
「今はバッハを聴いて」
「なぜ?」
「イエナを追いかけると、すぐ答えが欲しくなるから」
舞台袖から拍手が聞こえてくる。
「でも、彼女は答えじゃない」
吉満は言った。
「問いなの」
そして舞台へ出ていった。
拍手。
静寂。
最初の一音。
バッハ。
私は客席の最後列に座った。
音が重なっていく。
一つの旋律を、別の旋律が追う。
離れたと思えば戻ってくる。
対立しているようで、最後には一つの構造を作る。
そのときスマートフォンが震えた。
《パンとワイン》だった。
**MODE CHANGE**
私は画面を見る。
**戦闘モードを終了します。**
次に表示された文字を見て、息を止めた。
**恋愛モードを開始します。**
「誰とだよ……」
小さく呟いた。
その瞬間。
舞台上の吉満たか子が、こちらを見た。
何百人もの観客がいる。
見えるはずがない。
それでも確かに、
彼女は私を見ていた。
そして微笑んだ。
画面に新しい文字が浮かんだ。
**TARGET:UNKNOWN**
私はまだ知らなかった。
このゲームの恋愛モードで求められるのは、
誰かを手に入れることではない。
待つこと。
友でいること。
離れていても見守ること。
そして、
守るべき時が来たときに、
逃げないことだった。
バッハは鳴り続けていた。
画面の片隅で、新しいクエストが点滅している。
**NEXT QUEST**
**井枝尼理出亜が育った場所へ行け。**
**そして、鍵のかかった木箱を探せ。**
バッハは鳴り続けていた。
画面の片隅で、新しいクエストが点滅している。
**NEXT QUEST**
**井枝尼理出亜が育った場所へ行け。**
**そして、鍵のかかった木箱を探せ。**




