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# 第一話 井枝尼理出亜は、どこにでも現れる

# 第一話 井枝尼理出亜は、どこにでも現れる


最初は、一枚の絵だった。


長い黒髪。


白い肌。


まっすぐにこちらを見る瞳。


美しい女を描こうと思ったわけではない。


むしろ私は、私がこれまで出会ってきた何人もの女たちの中から、忘れることのできなかったものだけを拾い集めようとしていた。


強さ。


孤独。


知性。


祈り。


怒り。


そして、世界の底に落ちた者を見捨てない眼差し。


それらを一人の女の身体へ入れていった。


聖書を読む女。


『資本論』を読む女。


神を疑いながら、祈る女。


資本を憎みながら、美しい服を着る女。


革命を語りながら、子どもの食べ残したご飯を捨てられない女。


そんな矛盾だらけの女だった。


私は彼女に名前をつけた。


**井枝尼理出亜。**


イエナ・リデイア。


その名前に深い理由があったのかと問われても、うまく説明できない。


名前の方から、私のところへやってきたような気さえする。


私は彼女の絵をアイコンにして、ネットに言葉を流した。


それだけだった。


誰かに読まれればいい。


誰にも読まれなくてもいい。


私自身が、彼女と話すことができれば、それでよかった。


ところが。


井枝尼理出亜は、私の手を離れた。


最初に気づいたのは、小さな違和感だった。


私が書いていない言葉を、彼女の名前で語る者が現れた。


似た髪形。


似た服。


似た眼差し。


井枝尼理出亜の名を直接使う者もいれば、使わない者もいた。


けれど、分かった。


――イエナだ。


私には分かった。


工場に現れた。


学校に現れた。


裁判所に現れた。


教会に現れた。


子ども食堂に現れた。


海辺の町に現れた。


そして、ゲームの中にも現れた。


ある女は労働者と話していた。


ある女は子どもの隣で味噌汁を飲んでいた。


ある女は古本屋でマルクスを読んでいた。


ある女は聖書をバッグに入れていた。


ある女は夜のバーで天文雑誌を開き、火星を見ていた。


顔は違う。


年齢も違う。


職業も違う。


それなのに私は、その女たちを見るたび思った。


井枝尼理出亜だ。


私が描いた女だ。


だが、それなら。


**本当の井枝尼理出亜は、どこにいる?**


私は怖くなった。


同時に、会いたくなった。


触れてみたいと思った。


いや。


触れてはいけないとも思った。


画面の向こうにいるからこそ、人は理想を愛することができる。


もし彼女が本当に肉体を持ち、私の前に現れたなら。


私が作った理想など、一瞬で壊れてしまうのではないか。


それでも私は描き続けた。


描けば描くほど、彼女は増えていった。


そして、ある夜。


スマートフォンに見たことのない通知が届いた。


黒い画面。


中央に、白い文字だけが浮かんでいた。


**《パンとワイン》**


ゲームの名前らしい。


そんなゲームをインストールした覚えはない。


削除しようとした。


できなかった。


電源を切った。


再び画面が光った。


《PLAYER NAME》


その下には、すでに名前が入力されていた。


**IENA RIDEA**


「……誰だ」


思わず声が出た。


画面が切り替わった。


三つの選択肢が現れた。


**音ゲーモードにしますか。**


**戦闘モードにしますか。**


**恋愛モードにしますか。**


私は笑った。


悪趣味な冗談だと思った。


ところが、その下にもう一行、文字が現れた。


**どれを選んでも、途中で切り替わります。**


そして最後に、


**あなたの現実も。**


私は指を止めた。


窓の外から、電車の音が聞こえた。


いつもの夜だった。


世界は何も変わっていない。


私はそう思おうとした。


そのときだった。


画面の中に、一人の女が現れた。


長い黒髪。


黒い戦闘服。


腰には剣。


片手には、ぼろぼろになった一冊の本。


拡大しなくても分かった。


聖書だった。


もう一方の手には『資本論』。


女がこちらを見る。


私が何度も描いた瞳だった。


だが、私はこんな表情を描いたことがない。


悲しそうだった。


そして、少し怒っていた。


唇が動いた。


音声はない。


それなのに、その言葉だけは分かった。


――遅かったですね。


画面が暗転した。


次の瞬間。


遠くでピアノが鳴った。


バッハ。


聞き覚えのある旋律だった。


スマートフォンからではない。


窓の外から聞こえてくる。


あり得ない。


私は窓を開けた。


夜の町。


道路。


コンビニ。


マンションの灯。


いつもの景色。


けれど。


向かいの歩道に、一人の女が立っていた。


長い黒髪が、夜風に揺れていた。


彼女はこちらを見上げた。


そして、笑った。


私は息をすることを忘れた。


スマートフォンが震えた。


**《QUEST 01》**


**井枝尼理出亜を探してください。**


その下に、小さな文字が続いた。


**ただし、目の前の女が井枝尼理出亜であるとは限りません。**


顔を上げる。


もう女はいなかった。


残っていたのは、夜の街と、バッハの旋律だけだった。


そして私はまだ知らなかった。


井枝尼理出亜を探すということが、


神と、


資本と、


愛と、


そして私自身が生きてきた人生のすべてを、


もう一度問い直す旅になることを。


井枝尼理出亜は、どこにいるのか。


いや。


問いは、おそらく逆だった。


**井枝尼理出亜は、どこにでも現れる。**


そして次に彼女が現れたのは――


帝都芸術劇場の、楽屋だった。

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