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# 井枝尼理出亜 ## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた ### 第五話 井戸の底――残れなかった私 #### 一 帰る場所のない帰還

# 井枝尼理出亜

## ――私が描いた女が、世界に現れはじめた


### 第五話 井戸の底――残れなかった私


#### 一 帰る場所のない帰還


電車は鎌倉を過ぎ、夜の町へ滑り込んだ。


私は窓に映る自分の顔を見ていた。


海辺の工場を離れたばかりだった。


若狭豪太の声が、まだ耳に残っている。


「俺たちがいるだろう」


彼はそう言った。


私ができなかったことを、彼らはやった。


私が離れた場所に、彼らは残った。


そして、私が守れなかった者を守った。


その事実は、感謝と同じくらい深い痛みを伴っていた。


彼らの存在が眩しかった。


同時に、その眩しさに照らされる自分が惨めだった。


私は何をしてきたのだろう。


制度を学んだ。


法律を読んだ。


歴史を調べた。


人々の苦しみを理解しようとした。


だが、理解することと、そこに残ることは違った。


私は何度も、人々のいる場所へ向かった。


そして何度も、離れた。


そのたびに、次こそはと思った。


もっと強くなれば。


もっと知識を得れば。


もっと実務能力を身につければ。


もっと勇気を持てれば。


今度こそ、残れる。


だが、準備が整う日は来なかった。


ある日、私は気づいた。


**私は、残るための準備をしながら、残らない理由を作り続けていたのではないか。**


電車が停車した。


私は降りた。


スマートフォンが震えた。


《パンとワイン》


**QUEST 05:井戸の底へ向かえ**


**TARGET:あなた自身**


私は立ち止まった。


今度の敵は、私だった。


***


#### 二 井戸


井戸は、古い屋敷の庭にあった。


鎌倉の谷戸の奥。


竹林に囲まれた、誰も住んでいない家。


崩れかけた石垣。


苔むした階段。


井戸の縁には、古い鉄の滑車が残っていた。


私は懐中電灯で底を照らした。


何も見えない。


水の音もしなかった。


そのとき、背後から声がした。


「来たのね」


井枝尼理出亜だった。


黒い髪を肩に流し、白いブラウスと濃紺のスカートを身につけていた。


戦闘服ではなかった。


剣も持っていない。


「今日は戦わないのか」


私が尋ねると、彼女は首を振った。


「戦うわ」


「誰と?」


「あなたが、ずっと見ないようにしてきた人と」


私は井戸を覗いた。


「誰だ」


イエナは私の隣に立った。


「あなたよ」


風が止まった。


井戸の底から、声が聞こえた。


「どうして、帰ってしまったんだ」


それは私の声だった。


若いころの。


まだ何も失っていないと思っていたころの。


***


#### 三 残った者、去った者


井戸の底に、光が灯った。


古い会議室が見えた。


長机。


灰皿。


書類。


壁に貼られた要求書。


若い男たちが議論していた。


豪太。


大熊。


小橋。


そして、私。


私は若かった。


言葉が次々に出てきた。


法律。


労働条件。


社会保障。


経済構造。


政治。


宗教。


誰よりも多くのことを語っていた。


だが、会議が終わると、私だけが先に帰った。


翌日も。


その翌日も。


やがて、会議に来なくなった。


井戸の底の若い私は、言った。


「仕方がなかったんだ」


私は頷いた。


「そうだ」


「仕事があった」


「そうだ」


「疲れていた」


「そうだ」


「家族のこともあった」


「そうだ」


「組織の中で孤立していた」


「そうだ」


若い私は顔を上げた。


「だから、帰ったんだ」


私は答えた。


「分かっている」


「本当に?」


その声が変わった。


「だったら、どうして今も俺を責めるんだ」


私は黙った。


若い私は立ち上がった。


「お前は、俺が残れなかったことを、何十年も責め続けている」


私は目を逸らした。


「残るべきだった」


「どうやって?」


「もっと勇気を持って」


「勇気だけで?」


「もっと努力して」


「努力すれば、疲れなくなるのか?」


「もっと賢くなって」


「賢くなれば、孤立しなくなるのか?」


私は答えられなかった。


若い私は言った。


「俺だって残りたかった」


その声が震えた。


「俺だって、あの人たちのそばにいたかったんだ」


私は初めて、井戸の底の自分が泣いていることに気づいた。


***


#### 四 残れなかった理由


「あなたは、あのころの自分を臆病者だと思っているのね」


イエナが言った。


「そうだ」


「でも、臆病だったことだけが理由ではないでしょう」


「ほかに何がある」


「疲れていた」


「誰だって疲れている」


「孤立していた」


「誰だって孤独だ」


「助けを求められなかった」


「それが弱さなんだ」


イエナは私を見つめた。


「あなたは、ほかの人にも同じことを言うの?」


私は顔を上げた。


「何を?」


「疲れて動けなくなった人に、誰だって疲れていると言う?」


「言わない」


「孤立した人に、誰だって孤独だと言う?」


「言わない」


「助けを求められなかった人に、それは弱さだと言う?」


「言わない」


「どうして、自分には言うの?」


私は黙った。


イエナは続けた。


「あなたは、他人の苦しみには事情を認めるのに、自分の苦しみには事情を認めない」


「自分を甘やかしたくない」


「事情を認めることは、甘やかすことではないわ」


「でも、結果は変わらない」


「ええ」


イエナは頷いた。


「あなたが残れなかったことは、変わらない」


その言葉は厳しかった。


けれど、逃げ道を塞ぐための言葉ではなかった。


「それでも、なぜ残れなかったのかを正しく理解しなければ、また同じことを繰り返すでしょう」


私は井戸を見た。


若い私が、まだそこにいた。


肩を落とし、出口を探していた。


「私は、どうすればよかったんだろう」


イエナは答えた。


「一人で残ろうとしなければよかったのかもしれない」


***


#### 五 愛する者のそばに残れない


井戸の景色が変わった。


病院の廊下だった。


白い壁。


消毒液の匂い。


蛍光灯。


遠くで車椅子の音がした。


私は、その場所を知っていた。


そこには、私が大切に思っていた人がいた。


苦しんでいた。


助けを求めていた。


あるいは、助けを求める力さえ失っていた。


私はそばにいた。


最初は。


話を聞いた。


手を握った。


励ました。


何かできることはないかと考えた。


しかし、時間が過ぎるにつれて、私は疲れていった。


何を言えばいいのか分からなくなった。


何をしても足りない気がした。


相手の苦しみを前に、自分の無力さばかりが大きくなった。


やがて私は、そこへ行くことが怖くなった。


また何もできなかったら。


また相手を傷つけたら。


また自分が壊れてしまったら。


私は少しずつ距離を置いた。


そして、ある日。


戻れなくなった。


井戸の底から声がした。


「どうして、いなくなったの」


私は目を閉じた。


答えられなかった。


「愛していると言ったのに」


胸が締めつけられた。


「守ると言ったのに」


私は膝をついた。


「ごめんなさい」


それしか言えなかった。


「ごめんなさい」


何度繰り返しても、過去は変わらなかった。


イエナが隣にしゃがんだ。


「あなたは、あの人の苦しみを全部引き受けようとしたのね」


「守りたかった」


「でも、一人では引き受けきれなかった」


「それでも、残るべきだった」


「そう思っているのね」


私は頷いた。


「残ってさえいれば、何かが違ったかもしれない」


イエナは静かに言った。


「違ったかもしれない。でも、違わなかったかもしれない」


私は彼女を見た。


「それは分からないわ」


その通りだった。


私は長い間、残っていれば守れたはずだと思ってきた。


しかし、それは確かめることのできない未来だった。


私が離れたことは事実だった。


相手が苦しんだことも事実だった。


だが、私が残ればすべて救えたという確信まで、事実ではなかった。


その違いを認めることが、私には難しかった。


***


#### 六 守った人々への愛と嫉妬


井戸の底に、別の光が現れた。


豪太がいた。


大熊がいた。


小橋がいた。


彼らは誰かの隣に立っていた。


相談を受けていた。


病院へ付き添っていた。


職場で交渉していた。


裁判所の前に立っていた。


私はその姿を見ていた。


「彼らは、残った」


イエナが言った。


「そうだ」


「あなたは、彼らを尊敬している」


「そうだ」


「感謝している」


「心から」


「でも、羨ましい」


私は頷いた。


「羨ましい」


「そして、悔しい」


「そうだ」


「彼らが守った人を、あなたも守りたかった」


私は拳を握った。


「私が守りたかった」


言ってしまった。


その瞬間、自分の中にある醜い感情が見えた。


感謝している。


尊敬している。


愛情さえ感じている。


それなのに。


**なぜ、そこにいたのが私ではなかったのか。**


私はそう思っていた。


イエナは私を見た。


「その悔しさを、否定しなくていい」


「醜いだろう」


「醜い部分もあるでしょうね」


私は顔を上げた。


彼女は慰めなかった。


「でも、その感情があることと、その感情に従うことは違うわ」


「どういうことだ」


「あなたは、彼らの功績を奪わなくていい。彼らを憎まなくていい。そして、彼らと自分を同じ人間にしなくてもいい」


私は井戸を見た。


「彼らになりたかった」


「ええ」


「勇敢で、実務能力があって、必要なときにそこにいる人間に」


「ええ」


「でも、なれなかった」


イエナは静かに答えた。


「彼らには、なれなかったのね」


私は頷いた。


「でも、あなた自身として、まだ何ができるかは決まっていない」


***


#### 七 自分を置き去りにした男


井戸の底に、最後の人物が現れた。


年老いた男だった。


背中が少し曲がっていた。


手には古い本を持っていた。


聖書。


『資本論』。


そして、書き込みだらけのノート。


私はその男を見た。


未来の私だった。


彼は、机に向かって何かを書いていた。


地域の人々のための資料。


税と福祉の説明。


子どもたちのための星空の物語。


井枝尼理出亜の小説。


どれも完成していなかった。


男は、次々に新しい計画を立てていた。


そして、疲れて眠ってしまった。


私は胸が痛くなった。


「また、同じことを繰り返すのか」


未来の私は顔を上げた。


「何を?」


「準備ばかりして、何も守れない」


男は静かに笑った。


「そうかもしれない」


「どうして、もっと早く動かなかった」


「動いていたつもりだった」


「足りなかったんだ」


「そうだね」


「もっとできたはずだ」


「そうかもしれない」


私は怒りを覚えた。


「どうして、そんなに穏やかなんだ」


未来の私は言った。


「ようやく分かったからだよ」


「何が?」


「自分が、すべてを完成させることはできないということ」


私は黙った。


「小説も、地域活動も、仕事も、人を守ることも、全部を自分一人で完成させることはできない」


男はノートを閉じた。


「だから、誰かに渡すんだ」


「渡す?」


「知識を。資料を。物語を。できるところまでやって、続きを誰かに託す」


私は首を振った。


「それでは、残ったことにならない」


未来の私は答えた。


「残るとは、同じ場所に居続けることだけではないよ」


その言葉が、井戸の壁に反響した。


「人の中に、何かを残すこともできる」


私は目を閉じた。


私は、残れなかった。


しかし、何も残さなかったのだろうか。


誰かと話した言葉。


渡した資料。


一緒に見た星空。


子ども食堂で過ごした時間。


誰かの相談に耳を傾けた午後。


それらは、すべて消えてしまったのだろうか。


分からなかった。


だが、確かめてみたいと思った。


***


#### 八 残れない自分とともに


井戸の底が暗くなった。


私は再び、石の縁に立っていた。


イエナが隣にいた。


「何が見えた?」


彼女が尋ねた。


「残れなかった自分」


「それから?」


「残りたかった自分」


「それから?」


私は少し考えた。


「残れなかった自分を、ずっと責め続けてきた自分」


イエナは頷いた。


「その人を、どうするの?」


私は井戸を覗いた。


底には、若い私が座っていた。


疲れ果てた顔だった。


誰にも助けを求められず、帰ることしかできなかった男。


私は彼に向かって言った。


「お前は、残るべきだった」


若い私は顔を上げた。


「分かっている」


「守れなかった人がいる」


「分かっている」


「取り返しのつかないこともある」


「分かっている」


私は言葉を止めた。


それから、初めて別のことを言った。


「でも、お前も苦しかったんだな」


若い私は何も言わなかった。


「お前も、残りたかったんだな」


彼は頷いた。


「ごめんな」


その言葉が、どちらから出たのか分からなかった。


私は井戸の縁に手をかけた。


「もう、そこに一人でいなくていい」


若い私は立ち上がった。


「上がってきてくれ」


長い沈黙があった。


やがて、井戸の底から足音が聞こえた。


石段を登る音。


一段。


また一段。


私は手を伸ばした。


若い私も手を伸ばした。


指が触れた瞬間、井戸の中の光が消えた。


私は膝をついた。


手の中には何もなかった。


けれど、胸の奥で何かが変わっていた。


許せたわけではない。


後悔が消えたわけでもない。


守れなかった事実は、何一つ変わらない。


それでも。


**私は、残れなかった自分を、これ以上一人にしておきたくなかった。**


***


#### 九 新しい戦線


スマートフォンが震えた。


《パンとワイン》


**QUEST 05 COMPLETE**


**記憶の統合率:上昇**


**新しい能力を獲得しました。**


**《助けを求める》**


私は思わず笑った。


剣でもない。


魔法でもない。


投資でもない。


制度でもない。


ただ、助けを求める。


それが新しい能力だという。


イエナも笑った。


「難しいでしょう?」


「ああ」


「でも、覚えておいて」


彼女は私の手を取った。


「あなたが残れないとき、誰かに託してもいいの」


「それは逃げじゃないのか」


「逃げになることもあるでしょう。でも、責任を引き継いでもらうことと、黙って消えることは違うわ」


私は頷いた。


「次は、どうすればいい?」


「まず、帰りましょう」


「帰る?」


「ええ。休むの」


私は苦笑した。


「そんなことでいいのか」


「休まなければ、また残れなくなるでしょう」


彼女は少しだけ強く、私の手を握った。


「そして明日、できることを一つだけ選びましょう」


「一つだけ?」


「一つだけ」


私は夜空を見上げた。


竹林の向こうに、星が見えた。


井戸の底から見上げる星空は、狭い。


けれど、その狭い空にも星はあった。


私は思った。


自分の人生は、まだ終わっていない。


守れなかった人々への思いも、消えることはない。


残れなかった過去も、変えられない。


それでも、私はこれから先の時間を生きる。


残れない自分を否定するのではなく。


残れないときには、誰かに助けを求める。


離れなければならないときには、黙って消えず、できる限り言葉を残す。


そして、残れるときには、そこにいる。


完全な人間になることはできない。


けれど、完全でないまま、誰かとともに生きることはできる。


イエナが私を見た。


「帰りましょう」


私は頷いた。


「帰ろう」


彼女と並んで、竹林の道を歩いた。


どこまで一緒に歩けるのかは、分からなかった。


それでも今、この瞬間だけは。


私は逃げずに、ここにいた。


そして、彼女もいた。


**残れなかった私が、初めて自分自身のそばに残った夜だった。**


――第五話・完――


---


### 次回 第六話「架け橋――誰かに託す勇気」


井戸から戻った徹は、地域の小さな集まりに参加する。


税、福祉、労働、子ども食堂、若者の仕事。


それぞれの人が、自分の困難を抱えている。


徹は、すべてを解決しようとする。


しかし、イエナは問いかける。


「あなたは、また一人で全部背負うつもり?」


守ることから、託すことへ。


孤独な戦闘から、共同の営みへ。


井枝尼理出亜の新しい戦線が始まる。

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