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第23話_隣の縄張り争い

 翌朝、シアが採集に出ようとして、入口の前で止まった。


「ケンジ」


『どうした』


「なんか……空気が変わった気がする」


 俺もそれを感じていた。昨夜からだ。


 気配そのものが近づいているわけではない。洞穴の入口から半径五百メートルの感知範囲には、今のところ何もいない。だが外の空気の質が微妙に変わっていた。鳥の声が少ない。昨日まで夜明けとともに聞こえていた森の朝の音が、今朝は薄い。


 何かが、この周辺の生き物を黙らせている。


『採集は待て。今日は外に出るな』


 シアがすんなり引いた。「わかった」と言って奥の空間に戻った。いつもなら「なんで」の一言くらいは返ってくる。出ないと判断した理由が、シア自身にもあるのだろう。


 俺は感知を絞った。


────────────────────────────────────


 昼前に、それがわかった。


 音だった。


 遠い。感知の外だ。ただし音は別だ。空気を伝わる低い振動——翼を打つ音に近い。大きい。相当大きい。鳥ではない。俺が今まで感知してきた野生の魔物のどれとも違う種類の「重さ」が、空気越しに届いてくる。


 上空だ。森の上を、何かが旋回している。


 シアに念話を入れた。


『ワイバーンという魔物を知っているか』


 少し間があった。


『……知ってる。大きい。すごく大きい。竜に近い種で、翼がある。縄張りが広くて——』シアの声のトーンが下がった。『まさか、今外にいるの?』


『上空を旋回している。まだ遠い。ただ、この周辺を縄張りとして主張し始めた可能性がある』


 また間があった。今度は長い。


『……それ、まずくない?』


────────────────────────────────────


 まずい、という言葉は正確だ。


 ワイバーンは俺の感知範囲の外にいる。つまり俺には何もできない。洞穴の中に引きこもっている限り、ワイバーンが直接コアを壊しにくる心配はない——少なくとも今すぐは。ただし問題は別のところにある。


 シアだ。


 シアは毎朝外に出る。採集なしでは食料が尽きる。いつまでも洞穴に閉じこもってはいられない。外にワイバーンの縄張りが展開されているなら、シアが外に出るたびに命の危険がある。ワイバーンは飛翔する捕食者だ。上空から地上の小さな獲物を見つけるのは難しくない。


 それと、もう一つ。


 冒険者が来なくなる。


 Eランクのダンジョンとして認定されたばかりで、DP収入が安定し始めたところだ。ワイバーンが周辺の縄張りを固めれば、冒険者はこの洞穴への接近ルートを避けるようになる。死なないダンジョンの評判が広まっても、たどり着く前にワイバーンに殺されては意味がない。


『状況を整理する』と俺は言った。『お前が知っているワイバーンの習性を教えてくれ。全部だ』


 シアが座り直す気配があった。


────────────────────────────────────


「ワイバーンは縄張りの中心に巣を作る。巣から離れすぎた場所には来ない。縄張りの端っこなら、そこまで危険じゃないこともある」


『この洞穴が縄張りに入っているかどうかは、まだわからない』


「うん。でも今日みたいに鳥が黙るのは、縄張り宣言が始まったときの兆候だって聞いたことがある。エルフの長老が言ってた。『森が静かになったら空を見ろ』って」


『巣の場所はどこにあると思う』


「旋回してる中心から推測するしかない。音が来た方角は?」


『北西だ』


 シアが少し考えた。


「この洞穴から北西に行くと、もっと高い岩山がある。あそこなら巣を作りやすい。崖があって、上から周囲を見渡せる」


 俺はその情報を頭に入れた。北西の岩山。感知の外だが、方角と距離の見当はつく。洞穴から直線で一キロ以上は離れているはずだ。


『縄張りの広さは』


「種によって違う。小型なら半径一キロ前後、大型なら三キロ以上のこともある」


 一キロ。この洞穴との距離と縄張りの広さが重なるかどうか、そこが分かれ目だ。


『音の大きさから、大型か小型かはわかるか』


「わたしは見たことしかないから……でも音が届いてるなら、小型じゃないと思う。小型のワイバーンの羽音はそこまで遠くには届かない」


 大型の可能性が高い。縄張りが三キロ以上なら、この洞穴はすでに内側に入っている。


『わかった』


────────────────────────────────────


 問題を順番に並べた。


 一つ目、シアの採集。これは解決策がある。採集の範囲を南東方向——ワイバーンの巣と逆側——に限定する。距離も縮める。食料の種類は減るが、命の危険よりましだ。


 二つ目、冒険者の足止め。これはすぐには解決できない。ワイバーンがいる限り、アクセスルートは危険になる。ただしワイバーンが縄張りを主張し始めたばかりなら、まだ来る冒険者もいるかもしれない。状況を見る。


 三つ目、根本的な対処。


 これが難しい。


 ワイバーンを倒すことは今の俺にはできない。洞穴の外に干渉できない。ゴブリンを外に出しても野生化するだけだ。ガルム——五層の番人——を外に出す選択肢はあり得るが、仮に外に出せたとして、ワイバーンとガルムが戦えばどちらが勝つかはわからない。大型のワイバーンを相手に、地上型の強化オークが有利とは言えない。


 直接戦えない。


 だとすれば、できることは「ここが縄張りに値しない」と思わせることか、あるいは「縄張りの外に出ていく動機を与える」ことだ。


『シア』


『何?』


『ワイバーンを追い払った事例を知っているか。大型の』


 シアがしばらく黙った。


「……追い払うのは難しいって聞く。強い魔法使いが焔の魔法で威嚇するとか、Aランク以上の冒険者パーティが巣を直接叩くとか。普通は避けるか、退くかのどっちかだと思う」


 そうか。


『退く、という選択肢について聞く。ワイバーンが自分から縄張りを移す理由は何だ』


「餌が減ったとき。もっと良い巣場所を見つけたとき。あとは……他の強い個体に圧迫されたとき、かな」


 餌が減る。


 俺はその点を考えた。この周辺の森には野生の魔物が一定数いる。オーク、コボルト、その他の獣類。ワイバーンにとってそれらは餌だ。俺のダンジョンに引き込まれた野生の魔物は撃退されるか消耗する。長期的に見れば、この周辺の野生魔物の個体数は俺のダンジョンによって減っている可能性がある。


 餌場として魅力が下がれば——ワイバーンは別の場所を探すかもしれない。


 今すぐできることではない。しかし時間をかけた解決策としては、あり得る。


『今日のところはわかった。当面の方針を決める』


────────────────────────────────────


 方針を三つ決めた。


 一つ目、シアの採集は南東方向・距離三百メートル以内に限定。


 二つ目、洞穴の入口付近に常時コボルト二体を待機させ、上空の変化を早期に感知する。コボルトは俺より地上の動物的な感覚に優れている部分がある。変化があれば動きで知らせるよう意図を込める。


 三つ目、当面はワイバーンとの直接衝突を避けながら、情報を集める。


 シアにこれを伝えると、一つ目について即座に返ってきた。


「三百メートルは少し困る。木の実が取れる場所が限られる」


『四百メートルまで妥協する。それ以上は駄目だ』


「わかった」


 それから少し間を置いて、シアが言った。


「ねえ、ケンジ。ワイバーンって、冒険者ギルドに報告できないのかな。こういう危険な魔物が出たって」


 俺は少し考えた。


 冒険者ギルド。シアから聞いた話では、危険な魔物の出没情報はギルドが管理している。Eランクのダンジョンとして認定を受けているなら、ギルドとの接点が生まれ始めている頃でもある。


 だがギルドに報告するには、誰かが外に出て、ギルドの人間に会わなければならない。今それができる状況ではない。


『今すぐは難しい。ただ——お前の言う通り、外の情報を持っている者と繋がることは考えておく必要がある』


「うん。ギルドの人たちがこのダンジョンのこと調べに来たとき、話ができたら色々変わりそうだなって、前から思ってたんだよね」


 それはそうだ。ギルドとの接触は、Eランク認定を受けた時点で遅かれ早かれ必要になる話だ。ワイバーンの件を除いても、いずれ誰かがやってくる。


『その話は、また別の機会に改めてしよう』


────────────────────────────────────


 夕方になっても、ワイバーンの気配は続いていた。


 上空を旋回しているらしい振動が、断続的に空気を揺らす。近づいてはいない。ただそこにいる、という主張だ。縄張りを固める初期段階の行動に見える——とシアが言った。「最初の数日は広く飛ぶ。それから徐々に中心に絞っていく」という話を、過去に誰かから聞いたらしい。


 今夜が峠だ、と俺は思った。


 旋回が縮まれば、この洞穴が縄張りの内側かどうかが明確になる。外側なら当面の問題は解消する。内側なら、長期的な対処が必要になる。


 シアが夕食を食べながら、念話で言った。


『ガルムって、外に出せないの?』


『出せない。外に出した瞬間に俺の制御が届かなくなる。野生化する』


『そうか』少し間があった。『じゃあ、ケンジが外に出る方法ってないの? 今のところ』


『ない。百万Pが必要だ』


『遠いなあ』


 遠い。ただ、その言葉は今日で二度目だ。先日シアに「遠い」と言われたとき、俺はただそうだな、と思った。今日もそう思う。だが今日は少し感覚が違った。


 遠い、ということは——まだそこには達していない、ということだ。


 達していないということは、達したときには今とは違うことができる、ということだ。


 ワイバーンに対して今の俺には何もできない。シアが外に出るたびに心配するしかない。情報を集めて、方針を立てて、待つしかない。


 それは今の俺の制約だ。変えられない。


 だが変えられない今の制約を、将来は変えられる。


 それだけは確かだ。


『今日はよく教えてくれた』


 シアが少し笑った気配があった。


「役に立てた?」


『十分だ』


「それは褒めてくれてる?」


『事実を言っている』


「じゃあ褒めてくれてる」


 俺は何も返さなかった。返す必要もなかった。


────────────────────────────────────


 夜が更けた。


 ワイバーンの振動は止んでいた。どこかに戻ったのか、それとも旋回をやめて着地したのか、判断できない。ただ今この瞬間、空気が少し戻ってきた。虫の声が遠くで聞こえ始めた。


 シアが眠りについた。


 俺はコボルト二体を入口付近に配置したまま、今日の情報を整理した。


 ワイバーン。大型。北西の岩山に巣を構えた可能性。縄張りの範囲は不明。直接対処手段なし。当面は回避と情報収集で凌ぐ。


 それと、もう一つ気になることがあった。


 シアが「ギルドの人たちと話ができたら」と言ったこと。


 Eランクのダンジョンとして認定されてから、冒険者が来るようになった。あの四人組とは二度交戦した。だが俺たちはまだ、外の人間と「話した」ことがない。一方的に撃退しているだけだ。


 言葉で伝える手段が俺にはない。念話はシアとしか繋がらない。シアが外に出て話すことはできるが、今のシアをそのリスクに晒したくない。


 ワイバーンの件は、外の情報と人脈の欠如を改めて突きつけてきた。


 これは、いずれ解決しなければならない問題だ。


────────────────────────────────────


             *


DP残高:8,175P

配備戦力:ゴブリン×9体(強化2含む) 強化オーク×1体(2層関所) 強化オーク【ガルム】×1体(5層番人) コボルト×6体(うち2体を入口付近に前方配置)

落とし穴×10か所 毒ガストラップ×2 火炎トラップ×2 宝箱×1

本日の収支:±0P(戦闘なし)

現在のダンジョン規模:5層 推定ランク:E

新規警戒:ワイバーン(大型・推定)が北西方面に出現。縄張り宣言の初期段階と判断。直接対処手段なし。シアの採集範囲を南東・400m以内に暫定制限。

課題:外部との情報・人脈の欠如。ギルドとの接触タイミングの検討が必要。


────────────────────────────────────


続きを楽しんでいただけたら、ブックマーク・評価いただけると励みになります。


次話は明日の17:00に投稿します。

1日1話投稿の予定になります。


よろしくお願いいたします。

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