第13話_シアの笑顔
その朝、シアはいつもより少し早く採集に出た。
「昨日のうちに目をつけておいた場所があって。いつもより少し奥に行ってみる」
『どのくらい奥だ』
「森を五分くらい。いつもの場所から」
いつもの採集範囲が俺の念話の有効距離、約500メートルの内側ぎりぎりに収まっている。それより五分奥となると、感知の外に出る可能性がある。
『あまり遠くに行くな』
「大丈夫。すぐ戻るから」
シアはそう言って、足取り軽く洞穴を出た。
その背中を感知の端で追いながら、俺は二層目の整備作業に意識を向けた。
────────────────────────────────────
三十分後、シアはまだ戻っていなかった。
いつもなら採集は二十分程度だ。「少し奥に行く」という話だったから、今日は三十分かかるかもしれない。それくらいは想定内だ。
俺は作業を続けた。
四十分後。
まだ戻っていない。
念話を送った。応答がない。感知の外にいる。
五十分後。
作業に集中しようとしたが、できなかった。洞穴の感知の一部が、常に入口の方向に向いていた。意識的にそうしているつもりはないが、していた。
一時間後。
シアはいなかった。
俺にはできることが何もなかった。
────────────────────────────────────
洞穴の中のことは全部わかる。外に出た瞬間、何もわからなくなる。
それだけのことが、今日は本当の意味でのしかかってきた。
できることがない。
一時間が経った。
────────────────────────────────────
一時間四十分後、入口の方向に気配が戻ってきた。
シアだった。
走っている。息を切らして、砂利を踏む足音が乱れている。入口に飛び込んできた。奥の空間まで来て、壁に背をつけてその場に崩れるように座り込んだ。
胸が上下している。額に汗がある。
「……ただいま」
俺はすぐに答えなかった。一秒ほど、答えられなかった。
『何があった』
声が、思ったより平坦に出た。
「話すから、少し待って」
シアが三回、深く息をついた。それから顔を上げた。
「森の中に人がいた。男が四人。武器持ってた。わたしが行った場所のすぐ近くを歩いてた」
『奴隷狩りか』
「たぶん。会話が聞こえた。ちゃんとは聞き取れなかったけど、エルフって言葉が何回か出てた。この辺りを探してる感じだった」
『どのくらい近かった』
「倒れた木の陰に隠れてたんだけど、一番近いときで十歩くらい」
十歩。三メートルほどだ。
「通り過ぎるまで待ったら、もっと奥の方に行って、しばらくして別の方向に戻っていった。完全に見えなくなるまで待って、それから走って帰ってきた」
『怪我はないか』
「ない」
『方角は』
「西の方から来て、北に行って、東に消えた。この洞穴のある方角を中心に、ぐるっと回ってた感じ」
調査だ。包囲網を縮めるように動いている。新しい組織か、あるいはすでに来た連中の延長か。
ともかく、シアを探している者が森の中を動いていることは確かだ。
俺は情報を整理しながら、少しの間そのまま黙っていた。
シアも黙っていた。
それからシアが、ふっと息を吐いた。笑うような、でも笑ってはいない、奇妙な音だった。
────────────────────────────────────
「ねえ、ケンジ」
『なんだ』
「実は、帰ってきたら言おうと思ってたことがあって」
俺は次の情報確認をするつもりで聞いた。『聞こう』
「木の陰に隠れてる間、ずっと怖かったんだけど、落ち着こうとして、戻ったらケンジに言う言葉を考えてたの」
『内容は』
「それが……」シアが口を押さえた。「『ケンジ、冷静に対処してきた。全く動じなかった。さすがのわたしも今日は少し状況が難しかったが、適切な判断で切り抜けた』って」
俺は続きを待った。
「自分で考えてて、なんかすごくかっこいいと思ってたんだけど」
『それで』
「ケンジが最初に言ったの、何人いた、武器は何だ、どっちに行ったって。それだけで」
俺は自分が言ったことを振り返った。確かにそれだけ聞いた。
「考えてた言葉、全部どこかに消えた」
シアがまた口を押さえた。今度は違う種類の息の漏れ方だった。
堪えていた。
「そしたら急に、木の陰で一人でかっこいいせりふを練習してた自分のことが」
声が震えた。笑いを抑えようとする震え方だった。
「すごく、おかしくなってきて」
シアが笑い出した。
声を出して、腹から、はっきりと。
これまで聞いたことのない笑い方だった。小さく口の端を上げるのではない。気まずさを誤魔化す愛想笑いでもない。体を少し折り曲げて、抑えようとして抑えきれなくて、洞穴の中に声が響くくらいの笑い方だった。
『……何がそんなにおかしい』
「だって」シアが笑いながら言った。「木の陰で、震えながら、頭の中でかっこいいせりふを練習してたんだよ。ひとりで。誰も見てないのに」
『練習自体は悪くない』
「そういう話じゃないんだよ」またひとしきり笑った。「帰ったら言おうって思ってたのに、全部吹っ飛んだ」
『俺が余計なことを聞いたか』
「そういう話でも、ないんだよ」
シアがようやく少し落ち着いた。目の端に涙が滲んでいるのは笑いすぎのせいだろう。
「笑ったら、怖かったのも少し薄れた」
それはよかった、と俺は思った。
声には出さなかった。ただ、よかった、と思った。
────────────────────────────────────
笑い声が収まって、洞穴が静かになった。
シアが壁に背を預けたまま天井を見た。さっきまでの笑顔が、ゆっくりと落ち着いた顔に戻っていく。
「ケンジ、心配してた?」
俺は少しの間、答えを探した。
『わかっていた』
「何が」
『お前が感知から消えた間、何もできないということが。それが、これまで思っていた以上によくわかった』
シアが静かに俺の方を見た。
「心配してたって、言えばいいじゃん」
『……心配していた』
「ありがとう」シアが短く言った。「でも無事だった」
『今回はそうだ』
しばらく間があった。
『念話の有効距離を伸ばす方法を考える』
「できるの?」
『ダンジョンが拡張されるほど、感知と念話の範囲も広がるはずだ。今は500メートルが限度だが、層を増やして規模が上がれば変わる。それとは別に、お前が採集に行く範囲を今の半分に絞れ』
「半分は困る」
『では四分の三だ。それ以上遠くには行くな』
シアが少し考えて、「わかった」と言った。不満そうではなかった。
「今日みたいなことが、また起きるかもしれないしね」
『そうだ。森の中を動いている連中がいる。毎日出るのは変えなくていい。ただ、今まで以上に注意しろ』
「うん」
それから少しの間、二人とも黙っていた。
洞穴の外で鳥が鳴いた。いつもの昼過ぎの声だ。何も変わっていない。ただ今日だけは、少しだけ、普段より重さのある静けさだった。
『よく戻ってきた』
言ってから、余計だったかもしれないと思った。だがシアは小さく笑った。
「それ、言ってくれるんだ」
『気が向いた』
「ありがとう」
────────────────────────────────────
その日の夜、シアが眠りについてから、俺は一つのことを考え続けた。
今日、シアが笑った。
声を出して、腹から、止まらないくらい。
震えながら木の陰でせりふを練習していた自分がおかしくて笑った、とシアは言っていた。それはそうだろう。でも俺には、怖かった時間が終わったから笑えた、という側面もあるように思えた。笑えるということは、もう終わったということだ。
一ヶ月前、最初の夜に洞穴に駆け込んできたとき、この子は笑えなかった。壁に貼りついて震えていた。
今日、笑えた。
それはそれで、俺には少し重たい発見だった。
何かが確かに変わった、という感触と、だからこそ守らなければならない、という感触が一緒になって、洞穴の静かな夜に溶けていった。
夜が深まった頃、入口の方向でかすかに足音がした。
昼間とは別の気配だ。一人ではない。闇の中で息を潜めている。
探している。
まだ、諦めていない。
────────────────────────────────────
*
DP残高:10,800P(変動なし)
配備戦力:ゴブリン×11体(回復完了) 落とし穴×6か所 宝箱×1
本日の収支:±0P
現在のダンジョン規模:2層(構築中) 推定ランク:E以下
確認事項:森の中に新たな奴隷狩りの動き。シアの採集範囲を暫定縮小。念話有効距離の拡張を長期課題として設定。
────────────────────────────────────
続きを楽しんでいただけたら、ブックマーク・評価いただけると励みになります。
次話は明日の17:00に投稿します。
1日1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




